黷髏S地がする。「それはじめに道《ことば》あり、万《よろず》の物これによりて創《つく》らる」とヨハネ伝の首《はじめ》に録されたるごとく、世界を支える善、悪の法則を犯せば必ず罰がなくてはなるまい。これ中世の神学者のいったごとく、神の自律でもあろう。私たちの罪は償われなくてはならない。しかし百の善行も、一つの悪行を償うことはできない。私たちは善行で救われることはできない。救いは他の力による。善行の功によらず愛によって赦されるのである。宗教の本質はその赦しにある。しかし善くなろうとする祈りがないならば、おのれの罪の深重なることも、その赦されのありがたさもわかりはしないであろう。たとえば親鸞が人間の悪行の運命的なることを感じたのは、永き間の善くなろうとする努力が、積んでも積んでも崩れたからである。比叡山から六角堂まで雪ふる夜の山道を百日も日参したほどの親鸞なればこそ、法然聖人に遇ったとき即座に他力の信念が腹に入ったのである。そのとき赦されのありがたさがいかにしみじみと感ぜられたであろうか。思いやるだに尊い気がする。私は親鸞の念仏を善くなろうとする祈りの断念とよりも、その成就として感ずる。彼は念仏によって成仏することを信じて安住したのである。彼が「善悪の字知り顔に大虚言の貌なり」と言ったのは、何々するは善、何々するは悪というように概念的に区別することはできないといったのである。善悪の感じそのものを否定したのではない。彼は善悪の感じの最も鋭い人であった。ゆえに仏を絶対に慈悲に人間を絶対に悪に、両者をディスティンクトに峻別せねばやまなかったのである。
人間の心は微妙な複雑な動き方をするものである。生きた心はさまざまのモチーフやモメントでその調子や方向を変ずる。私はけっして善悪の二つの型をもってそれを測りきろうとするのではない。善と悪とは人の心の内で分かちがたく縺《もつ》れ合って働く。嘘から出た誠もあれば誠から出た嘘もある。ただそれらの心の動乱のなかを貫き流れて稲妻のごとく輝く善が尊いのである。ドストエフスキーの作などに描かれているように怒りや憎しみの裏を愛が流れ、争いや呪いのなかに純な善が耀《かがや》くのである。私はそれらの内面の動揺の間にしだいに徳を積み、善の姿を知ってゆきたい。人生のさまざまの悲しみや運命を受けるごとに、心の目を深めて、先きには封じられていたものの実相も見ゆるようになり、捨てたものをも拾い、裁いたものをも赦し、ようやく心の中から呪いを去って、万人の上に祝福の手を延ばすように、博く大きくなりたいのである。魂の内なる善の芽を培うて、「空の鳥来たってその影に棲む」ような豊かな大樹となしたいのである。造り主の名によってすべての被造物と繋りたいのである。ああ、私は聖者になりたい(かく願うことがゆるさるるならば)。聖者は被造物の最大なるものである。しかしながら聖者といっても私は水晶でつくられたような人を描くのではない。私の描く聖者は人間性を超越したる神ではなく、人間性を成就したる被造物である。それはつくられたものとしての限りを保ち、人生の悲しみに濡れ、煩悩の催しに苦しみ、地上のさだめに嘆息しつつ、神を呼ぶところの一個のモータルである。真宗の見方からはなお一個の悪人であって、「赦し」なかりせば滅ぶべき魂である。私は罪のなかに善を追い、さだめのなかに聖さを求めるのである。私はたとい、親鸞が信心決定の後、業に催されて殺人を犯そうとも、パウロが百人の女を犯そうとも、その聖者としての冠を吝《おし》もうとは思わない。
願わくばわれらをして、われらがつくられたるものであることを承認せしめよ。この承認はすべての愛《め》でたき徳を生む母である。しこうしてつくられたるものの切なる願いは、造り主の完《まった》さに似るまでおのれをよくせんとの祈りである。
[#地から2字上げ](一九一六・一〇・一)
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他人に働きかける心持ちの根拠について
人間には他の人間の群れに対《むか》って呼びかけたい願いがある。いま私はそのねがいが熱と潤いとを帯びて心のなかに高まるのを感ずる。私は話しかけたい。私はその願いを人間らしい、純なものとは知っていた。けれど私にはその願いを行為に移す路筋《みちすじ》で心のなかに深い支障があった。私は永い間黙ってこらえてきた。そのために魘《うな》されるような気がしながら。
私は私の師からも大衆に向かって話しかけることを誡《いまし》められている。それは今の私の器量では他人に働きかけるのは他人を傷つけることだという道徳的の理由からである。私は師の心を察して涙ぐむ。しかしそれにもかかわらず、私は今これから他人に向けて働きかけようとしているのだ。私は今の世の多くの人々が私に話しかける心持ちの根拠の説明を迫るほど、他人の運命を畏
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