A一点の汚みにも恥じて死ぬほど純潔なものである。モンナが夫に貞操を疑われたときに、「私の目を見てください」というところがあるが、私はかしこを読むときにじつに純潔な感じがした。裁かぬというのは尊い徳である。しかしこれと似てしかも最も嫌なのはズボラ(indulgence)である。好人物という感じを与える人にはこのズボラが多い。アンナ・カレニナのなかのオブロンスキーのような人がそれである。オブロンスキーは好人物である。誰も憎む気にはなれない。しかしその妻の心はどれほど傷つくかしれない。かような人は悪意なくしてじつに最も他人の運命を損じるエゴイスティックな生き方をしているのである。ゲレヒチッヒカイトの盛んな人は裁く心も強い。そして鋭いという感じを他人に与える。裁くのはもとより悪い、その鋭さは天に属するものではない。しかしズボラよりはるかにましである。なんとなればその鋭さは真の赦しの徳を得た人には深いレリジャスなものとなるけれど、ズボラは真の赦しの心と一見似てじつは最も遠いものだからである。およそ宗教には二つの要素が欠けてはならない。一はいかなる微細な罪をも見遁さず裁くこと、一はいかなる極悪をも赦すことである。この矛盾を一つの愛に包摂したのが信心である。キリストの説教にはこの二つの要素が鮮やかに現われている。
 私はあくまでも善くなりたい。私は私の心の奥に善の種のあるのを信じている。それは造り主が蒔《ま》いたのである。私は真宗の一派の人々のように、人間を徹頭徹尾悪人とするのは真実のように思えない。人間にはどこかに善の素質が備わっている。親鸞がみずからを極重悪人と認めたのもこの素質あればこそである。自分の心を悪のみと宣《の》べるのは、善のみと宣べるのと同じく一種のヒポクリシーである。偽悪である。そのうえ私はかく宣べるのは何者かに対してすまないような気がする。私はかような問題について考えるたびに、なんとなく胸の底で「否定の罪」とでもいうような宗教的な罪の感じがする。およそ存在するものはできるかぎり否定しないのが本道である。つくられたるものの造り主に対する務めである。私の魂ははたして私の私有物であろうか。あるいは神の所有物ではあるまいか。私は魂の深い性質の内には、自分の自由にならない、ある公けなもの、ある普遍なもの、自己意識を越えて能《はたら》く堂々たる力があるような気がする。私たちの善、悪の意識に内在するあの永遠性はどこから来るのであろうか。あるいは造り主の属性《アットリブート》が私たちの先天的の素質として顕われるのではあるまいか。「魂は聖霊の宮なり」というのはかような気持ちをいうのではあるまいか。その公けな部分を悪しざまに言うことは、自分の持物を罵るようにはできない気がする。「聖霊に対する罪」というような気がする。「私たちの魂は悪のみなり」と宣べるとき私たちは他人のもの、造り主のものを罵ってはいないであろうか。私は寄席《よせ》に行ってあの「話し家」が自分の容貌や性質を罵り、はなはだしきは扇子を持っておのれの頭を打って客を笑わせようと努めるのを見るときに、他人のをそうしたよりもいっそう深い罪のような感じがする。私は私の魂は悪しと無下に言い放つのはそれと似た不安な感じがして好ましくない。やはり私は、私たちは本来神の子なのが悪魔に誘惑せられて悩まされている、それで魂の内には二元が混在するけれども、けっきょく善の勝利に帰するというような聖書の説明の方が心に適《かな》い、また事実に近い気がする。私たちの魂は善悪の共棲の家であり、そして悪の方がはるかに勢力を逞《たくま》しくしている。しかし心を深く省みれば、二つのものにはみずから位の差が付いている。善は君たるの品位を備えて臨んでいる。さながら幼い皇帝が逆臣の群れに囲まれているにも似ている。私たちの魂にはある品位がある。落ちぶれてはいても名門の種というような気がする。昔は天国にいたのが、悪魔に誘われて今は地上に堕ちているというのはよくこの気持ちを説明している。私たちは堕ちたる神の子である。心の底には天国の俤《おもかげ》のおぼろなる思い出が残っている。それはふるさとを慕うようなあくがれの気持ちとなって現われる。私たちが地上の悲しみに濡れて天に輝く星をながめるとき私たちの魂は天津ふるさとへのゼーンズフトを感じないであろうか? 私は私たちの魂がこの悪の重荷から一生脱することができないのはなぜであろうかと考えるとき、それは課せられたる刑罰であるという、トルストイやストリンドベルヒらの思想が、今までの思想の内では最も私を満足させる。その他の考え方では天に対する怨嗟《えんさ》と不合理の感じから医《い》せられることはできない。「ああ私は私が知らない昔悪いことをしたのだ、その報いだ」こう思うと、みずから跪《ひざまず》か
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