ヘあたかも物体に一つのディメンションを認めないようなものである。人生に一つのできごとがあれば、必ず一面において道徳的できごとである。しこうして私はそのザイテに最も重大に関心して生きねばならぬと感ずるのである。それはなぜであろうか? 私はよくわからない。おそらくこの価値の感じが、他の価値の感じよりもいっそう魂の奥から発するからであろうと思わるる。私たちが真に感動して涙をこぼすのは善に対してである。美に対してではない。もし美学的なるもの das Aesthetische と倫理学的なるもの das Ethische とをしばらく分けるならば、私たちの涙を誘うものは芸術でも人生でも後者である。美しい空を見入って涙がこぼれたり、調子の乱れた音楽を聞いて怒りを発したりするときでも私たちの心を支配している調子は後のものである。善悪の感じは私たちの存在の深き本質を成しているものであるらしい。私は芸術においてもこの道徳的要素は重要な役目を持つべきものと信ずる。私はこの要素を取り扱わない作品からほとんど感動することはできない。トルストイやドストエフスキーやストリンドベルヒの作に心惹かれるのはそのなかに深い善、悪の感じが滲《にじ》み出ているからである。「真の芸術は宗教的感情を表現したものである」というトルストイの芸術論がいかに偏していても、そこには深いグルンドがある。もとより道徳を説明し、あるいは説教せんとするアプジヒトの見え透くような作品からは、純なる芸術的感動を生ずることはできないけれども、たとい、その作には際《きわ》立った道徳的の文字など用いてなくとも、その作の裏を流れている、あるいはむしろ作者の人格を支配しているところの、人間性の深い、悲しい、あるいは恐ろしい善悪の感じが迫ってくるような作品を私は尊ぶ。けっしてイースセティシズムだけで深い作ができるものではない。もとより善、悪の感じといっても、私は深い、溶けた、輝いている純粋な善、悪の感じを指すのであって、世の中の社会的善悪や、パリサイの善をいうのではない。それらの型と約束をいっさい離れても、私たちの魂の内に稟在《ひんざい》する、先験的の善悪の感じ、それはもはや、けっしてかの自然主義の倫理学者たちの説くような、群居生活の便利から発したような方便的なものではなく、聖書に録されたるごとく、魂がつくられたときに造り主が付与したる属性としてでなくては、その感じを説明できないような深い、霊的な善悪の感じを指すのである。かかる善、悪の感じは、芸術でなくては表現することはできない。ドストエフスキーやストリンドベルヒ等の作品にはこのような道徳的感情が表われている。
 ここにまた一種の他のアモーラリストがある。それは世界をあるがままに肯定するために悪の存在を認めない人々である。およそ存在するものは皆善い。一として排斥すべきものは無い。姦淫《かんいん》も殺生もすでに許されてこの世界に存在する以上は善いものであるに相違ないというのである。この全肯定の気持ちは深い宗教的意識である。私はその無礙《むげ》の自由の世界を私の胸の内に実有することを最終の願望としているものである。しかしそれはけっしてアモーラルな心持ちからではない。世界をそのあるがままの諸相のままに肯定するというのは、差別を消して一様なホモゲンなものとして肯定するのとは全く異なっている。大小、美醜、善悪等の差別はそのまま残して、その全体を第三の絶対境から包摂して肯定するのである。その差別を残してこそ、あるがままといえるのである。ブレークが「神の造りたもうたものは皆善い」といったのは、後の意味での自由の地からである。ニイチェの願ったごとく「善悪の彼方の岸」に出ずることは、けっして善悪の感じを薄くして消すことによって達せられるのではなく、かえってその対立をますます峻しくし、その特質をドイトリッヒに発揮せしめて後に、両者を含むより高き原理で包摂することによって成就するのである。天国と地獄とが造り主の一の愛の計画として収められるのである。善を追い、悪を忌む性質はますます強くならねばならぬ。姦淫や殺生は依然として悪である。ただその悪も絶対的なものではなく、「赦《ゆる》し」をとおして救われることができ、善と相並んで共に世界の調和に仕えるのである。しかしその「赦し」というのは悪に対してむとんちゃくなインダルゼンスとは全く異なり、悪の一点一画をも見遁《みのが》さず認めて後に、そのいまわしき悪をも赦すのである。「七度を七十倍するまで赦せ」と教えた耶蘇《ヤソ》は「一つの目汝を罪に堕《おと》さば抜き出して捨てよ」と誡《いまし》めた同じ人である。「罪の価は死なり」とあるごとく、罪を犯せば魂は必ず一度は死なねばならぬ。魂はさながら面をつつむ皇后がいかなる小さき侮辱にも得堪えぬように
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