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 マリアのようにやさしく、マルタのように面倒を忍んで、多くの患者を看護してやってください。祝福あれ!
[#地から2字上げ](一九一五・一一)
[#改ページ]

 善くなろうとする祈り

     我建超世願、必至無上道、斯願不満足、誓不取正覚 ――無量寿経――

 私は私の心の内に善と悪とを感別する力の存在することを信ずる。それはいまだ茫漠《ぼうばく》として明らかな形を成してはいないけれど、たしかに存在している。私はこの力の存在の肯定から出発する。私はこの善と悪とに感じる力を人間の心に宿る最も尊きものと認め、そしてこの素質をさながら美しき宝石のごとくにめで慈《いつく》しむ。私は私がそのなかに棲《す》んでいるこのエゴイスチッシュな、荒々しい、そして浅い現代の潮流から犯されないように守りつつ、この素質を育てている。私はしみじみと中世を慕う心地がする。そこには近代などに見いだされない、美しい宗教的気分がこめていた。人はもっと品高く、善悪に対する感受性ははるかにデリケートであったように見ゆる。近代ほど罪の意識の鈍くなった時代は無い。女の皮膚の感触の味を感じ分ける能力は、驚くほど繊細に発達した。そして一つの行為の善悪を感じ分ける魂の力はじつに粗笨《そほん》を極めている。これが近代人の恥ずべき特色である。多くの若き人々はほとんど罪の感じに動かされていない。そして最も不幸なのは、それを当然と思うようになったことである。ある者はそれを知識の開明に帰し、ある者は勇ましき偶像破壊と呼び、モラールの名をなみすることは、ヤンガー・ゼネレーションの一つの旗号のごとくにさえ見ゆる。この旗号は社会と歴史と因襲と、すべて外よりくる価値意識の死骸の上にのみ樹《た》てらるべきであった。天と地との間に懸《か》かるところの、その法則の上におのれの魂がつくられているところの、善悪の意識そのものを否定せんとするのは近代人の自殺である。もとより近代人がかくなったのは複雑な原因がある。その過程には痛ましきさまざまの弁解がある。私はそれを知悉《ちしつ》している。しかしいかなる罪にも弁解の無いのはない。いかなる行為も十分なる動機の充足律なくして起こるのは無いからである。道徳の前にはいっさいの弁解は成り立たない。かの親鸞聖人を見よ。彼においてはすべての罪は皆「業《ごう》」による必然的なものであって自分の責任ではないのである。しかもみずから極重悪人と感じたのである。弁解せずして自分が、みずからと他との運命を損じることを罪と感じるところに道徳は成立するのである。
 多くの青年は初め善とは何かと懐疑する。そしてその解決を倫理学に求めて失望する。しかし倫理学で善悪の原理の説明できないことは、善悪の意識そのものの虚妄であることの証明にはならない。説明できないから存在しないとはいえない。およそいかなる意識といえども完全には説明できるものではない。そして深奥な意識ほどますます概念への翻訳を超越する。倫理学の役目は、私たちの道徳的意識を概念の様式で整理して、理性の目に見ゆるように(Veranschaulichen)することにあって、その分析の材料となるものは私たちのすでに持っている善悪の感じである。善とは何かということは今の私にも少ししかわかっていない。私は倫理学のごとき方法でこの問いに答え得るとは信じない。善悪の相は私たちの心に内在するおぼろ気《げ》なる善悪の感じをたよりに、さまざまの運命に試みられつつ、人生の体験のなかに自己を深めてゆく道すがら、少しずつ理解せられるのである。歩みながら知ってゆくのである。親鸞が「善悪の二字総じてもて存知せざるなり」と言ったように、その完全なる相は聖人の晩年においてすら体得できがたきほどのものである。すべてのものの本体は知識ではわからない。物を知るとは、その物を体験すること、更に所有《アンアイグネン》することである。善悪を知るには徳を積むよりほかはない。
 善と悪との感じは、美醜の感じよりもはるかに非感覚的な価値の意識であるから、その存在は茫として見ゆれど、もっと直接に人間の魂に固存している。魂が物を認識するときに用いる範疇《はんちゅう》のようなものである。魂の調子のようなものである。いなむしろ魂を支えている法則である。それをなみすれば魂は滅ぶのである。ある種類の芸術家には人生の事象に対するとき、善悪を超越して、ただ事実を事実として観《み》るという人がある。自分の興味からさようにある方面《ザイテ》を抽象するのは随意である。しかしそれを具体的なる実相として強《し》い、あるいは道徳の世界に通用させようとするのは錯誤である。ある人生の事象があれば、それは大きかったり、小さかったりするごとく、同様に善かったり、悪しかったりする。物を観るのに善、悪の区別を消却するの
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