「って、金を贈ったり、見舞いに来たりすることは、その人の自由ではない。いわんや「私はあなたを恋します」といって見知りもせぬ女に艶書《えんしょ》を贈り、それで何ものかを与えたごとく考え、その女が応じなかった場合には立腹するようなことは、最も理由の無いことである。私たちは温かな愛があっても、それを受けいれない人に、その表現を押しつけることはできない。かくいろいろと考えて見れば、私たちの愛の実際的効果というものは、じつに微弱なものである。ただ幸あれかしと祈ることのみ自由である。また愛はその本来の性質上、制限を超え、差別を消してつつむ心の働きである。程度と種族とを知らぬ霊的活働である。しかるに私たちの物を識る力は、時間と空間とに縛られている。時が隔たれば忘却し処が異なれば疎《うと》くならざるを得ない。死んだ啄木の歌に、「Yといふ字日記の方々に見ゆ、Yとはあの人のことなりしかな」というのがあるが、私たちはやむをえぬ制限から、そのようになってゆく。なにもかも過ぎて行く、けれどふと折に触れて思い出すとき、たまらない気がすることがある。そのようなときに私たちが祈り得たならば、いかに心ゆくことであろう。私たちは愛するときほど、人間を限られたるものとして感じるときはない。愛はただ祈りの心持ちのなかにおいてのみ、その全きすがたが成就するように思われる。私は祈りの心持ちに伴われざる愛を深いものとは思えない。昔から愛の深い人は、多くは祈りの心持ちにまで達しているように見える。深いキリスト教の信者には祈りが実際に聴かるべしと信じて、たとえば「あの友の病が癒えますように」と祈れば、もし神の聖旨ならば必ずその病癒ゆべしと信じている人がある由である。いかに幸福な心の有様であろう。私はまだとてもそこまではゆけない。しかし私は祈りの心持ちを強く感じる。愛を徳として完成する境地は祈りのほかにはないように思われるからである。
純なる愛は他人の運命をより善くせんとするねがいである。そのねがいは消極的にみずからの足らざるを省みる謙虚な心となって、他人の運命を傷つけることをおそれる遠慮となり、自己の力の弱少を感じては祈りとなる。けれどこのねがいは他の一面にては積極的に他人に向かって働きかけたい強い要求となって現われる。他人の運命に無関心でいられない心は、他人の生活に影響したくならずにはおかない。あの人は不幸である。助けてやりたい、あの女は間違っている、正しくしてやりたい。かくのごとき要求は、他人の生活に侵入してゆきがちな傾向を帯びるがゆえに、個人主義の主として支配している今の社会では、ことにしばしばおせっかい[#「せっかい」に傍点]として排斥せられる。このゆえに、世の賢き人々は、ただ自己の生活を乱されぬように守りつつ、他人の生活には、なるべく触れないように努める。そして自分の態度をジャスチファイして曰く、「個性は多様である、自己の思想をもって他人を律してはならない。また自分は他人に影響するだけの自信を持たない」と。この考え方はじつにもっともである。しかし、多くの場合、この思想は愛の欠けている人の口実のように私にはみえる。なんとなればもし、今の世の人と人との孤立が、真に愛より発する働きかけたい心がこの謙虚な思想に批判さるるところに原因を持ってるものならば、その孤立は、もっとしみじみしたものになるはずだからである。孤立というものは、愛が深くて、しかも謙遜な心と心との間においては、むしろ人と人とが繋り合うのに最もふさわしき要件である。今の世の人間同士の孤立は、一つはその掲ぐる口実と正反対に傲慢と、そして何よりも愛の欠乏からきているのである。すなわち他人に働きかけようとせず、他人を受けいれようとしないかたくなな心が、その最大因をなしている。もし愛の深い、ヒューメンな心ならば、一方は、先きに述べしごとく、祈りとなるまでに謙遜になるとともに、一方は、おせっかいなほど働きかけたくなるであろう。人に働きかけたい心は善い、純なねがいである。この心が受け取りやすいモデストな心に出遭うときには、どんなになめらかな交わりになることだろう。自己を知らざるほしいままなる働きかける心は、他人を侵し傷つけるけれども、その心が祈りの心持ちによって深められるときには、もっとも望ましきはたらきをつくる。祈りの心持ちは、単に密室において神と交わる神秘的経験ではなく、その心持ちのなかには、切実な実行的意識が含まれている。いな、むしろ祈祷は実践的意識の醗酵、分泌した精のごときものである。今ここにある人の心に愛が訪れるとする。その愛がいまだ表象的なものに止まる間は、けっして祈りにはならない。しかし、その愛が他人の運命を実際に動かしたい意志となり、そしてその意志がそれに対抗する運命の威力を知り、しかもその運命に打ち克《
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