「うものの力に触れてくる。そしてそこから知恵が生まれてきて、愛と知恵との密接な微妙な関係がしだいに体験せられてゆく。昔から聖者といわるるほどの人の愛は、みな運命に関する知恵によって深められ浄《きよ》められた愛である。耶蘇《ヤソ》の愛や釈迦《しゃか》の慈悲は、その最もよき典型である。愛がもし多くの人々のいわゆる愛のごとくに、他人との接触にインテレッセを置くものであるならば、そは甘く、たのしきものとして享楽せらるるであろう。アンナ・カレニナのなかのオブロンスキーが、「私は女を愛せずにはいられない」といったあのごとき愛や、女が「あなたは好きよ」というときの愛や、または普通の、百姓爺などを面倒くさがる男子が美しき女に対するときの愛などは、そのときの接触を味わう心であるがゆえに、運命や知恵や祈りとは何の関係もなしに済むであろう。けれど、もしも一人の少女をでも、私のいわゆる隣人の愛をもて愛してみよ。それはかぎりなき心配でなければならない。この少女の運命に自分があずからねばならない。自分のやり方でこの少女の運命はいかに傷つけられるかもしれない。いわんやときにはベギールデが働いたり、ミスチーヴァスな気持ちになりかねない自分らが、平気で少女に対することができようか。そのときもし私たちが真面目になるならば、自分たちの知恵と徳とが省みられるに相違ない。もっと自分に知恵があり、もっと心が清いならば、この少女の運命を傷つけずに済むであろうと。そして事実として私たちにこの自信のあることはほとんど不可能である。愛したい、けれど深い愛が宿らない。いかにせば愛の実際的効果をあげ得るかの知恵がない。力が足りない。そして他人の運命を傷つけることのいかに畏《おそ》るべきかを知れる謙虚な心には、これはじつに切実な問題である。そしてついに自分たちが人間としてもはや許されてないところのある限りを、まざまざと感ずるであろう。未来のことは自分のあずかり知るところではない。現在においても触れ合う人しか愛することはできない。そして触れ合うところの一人の生命すら、心ゆくまで愛されはしない。「一すじの髪の毛をだに白くし黒くする力」は持たない。私たちは自分の愛するものの不幸を目の前にして、手をこまねいて傍観しているよりほか何ごとも許されない場合に、しばしば遭遇する。そして静かに思えば、これまで幾人の人々と交わっては別れ、別れして、今はどこにいかなる生活をしているやら、わからない人々があることだろう。そしてそれらの人々をいかにして愛しようか。このときもし愛の深い人であるならば、堪えがたき無常を感ずるであろう。そのときほとんど私たちは愛する力も、知恵もないことを感ずる。そして、ただ愛したい願いだけが高まってゆく。――そして運命の力を感ずる。『歎異鈔《たんにしょう》』のなかにも、何人も知るごとく、

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 慈悲に聖道浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふが如く助けとぐること、きはめて有り難し。また浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏となり、大慈大悲心をもて、おもふが如く、衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとく助けがたければ、此の慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にてそうろふべき。
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 と書いてある。私も親鸞《しんらん》聖人のこの心の歩みの過程に、しみじみと同情を感ずる。すなわち親鸞聖人は念仏によって完全な愛の域に達せんと望んだ。私はこの計画の実際的効果をまだ信じ得ないけれど、愛を思えば祈りの心持ちを感ぜずにはいられない。もとよりいまだこの祈り聞かるべしと信じての祈りではない。しかし祈りの心持ちを感ずる。そして私は今ではこの心持ちを伴わざる愛は、けっして深いものとは思われなくなっている。どうぞ私がこの少女の運命を傷つけませぬように! 昔あの海べで別れた病める友、今はどうしているかわかりませぬが、どうぞ幸いでいますように! 私は多くの忘れ得ぬ人々の、今はゆくえも知れぬ人々の運命を思うとき、しみじみと祈りの心持ちを感ずる。祈るよりほか何も許されてないではないか。そして、その祈りの真実聴かれると信ずる信仰家は、いかに祝福されたる人々であろうと思わずにはいられない。
 また私たちは愛することは自由でも、愛を表現することは、もはや他人と関係したことで自分の自由ではない。他人が自分の愛を accept してくれないのに、愛を表現することはその人のわがままである。私のある友達が「彼に手紙を出したいけれど、よけいなことだと思われてはと思って差し控えている」といったと聞いて、私はその人の心持ちがよく理解できた。「私はあなたを愛します」と
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