キる。
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恋を失うた者の歩む道
――愛と認識との出発――
私は苦痛を訴えたり同情を求めたりする気はない。私は今そんなことをしてはいられない。私は生涯にまたとあるまじき重要な地位に立ってるのだから。私は今こそしっかり[#「しっかり」に傍点]せねばならない時である。見る影もなく押し崩された精神生活、そしてそれを支うべき肉体そのものの滅亡の不安――私の生命は内よりも外よりも危機に迫っている。私は自己を救済すべく今いかになすべきか。また何をなし得るのか。「生に事《つか》うるに絶対に忠節なれ」私はすべての事情の錯雑と寒冷と急迫との底に瞑目《めいもく》してかく叫ぶ。かく叫ぶとき心の内奥に君臨するものは一種の深き道徳的意識である。いっさいの約束を超越して、ただちに「生」そのものに向けられたる義務の感情である。それはある目的を意志するによりて必然に起こる義務ではない。それみずからの内に命令的要素を含む義務の感情である。私は今にいたりて初めてカントが道徳に断言的命令を立した心持ちに同感せられて、カントの深刻さが打ち仰がるる。危険に脅かさるる身体をもって、ものの崩るる音、亡ぶ響きを内に聞きつつある私に、忍耐と支持との力を与うるものは、この生に事える義務の感情よりほかにはない。
私はいささかの苦痛で済むような軽い恋はしなかったつもりである。毛の抜けた犬のようなミゼラブルな身を夜汽車に運ばれて須磨《すま》に着いて海岸を走る冷たい鉄路を見たときに、老父を兵庫駅に見送って帰りを黄色く無関心に続く砂浜に立って、とりとめない海の広がりを見たときに私は切に死を思った。それはついに死の表象にすぎなかったかもしれない。しからばあまりに実感にみちたる表象であった。私が須磨に来てから十日経たぬうちに二人の自殺者があった。一人は肺結核の癒《い》えがたきを嘆じての死であった。一人はまだ二十歳前後の青年であった。獣のように地べたに倒れた頭のそばにモルヒネの瓶《びん》が転がっていた。青ざめた顔、土色の唇から粘いガラス色の液を垂れてふっくふっく息を吐いていた。私は手を握ってみたらまだ温かであった。それを見た私の心は異様であった。私は死ぬまい。苦しければ、苦しいだけ死ぬまいと思った。私はこの青年の自殺を賞賛する心地にどうしてもなれなかった。いかなることあるも人間はかくのごときことを企つべきではないと思った。この青年の死骸の目撃は実感として私に「生」に対して企てられたる罪悪の意識を与えた。自殺が罪悪だということは道学者の冷やかなる理屈以外にもっと深い宗教的根拠があるのではあるまいか。そこには血と涙とに濡れたる数々の弁解があろう。しかも生に対する無限の信仰と尊重とを抱いて立つとき自殺は絶対的の罪悪ではあるまいか。足を切られれば切株(Stump)で歩むと言った人もある。いかなる苦痛にも忍耐して鞣皮《なめしがわ》のごとく強靱に生きるのが生物の道ではあるまいか。私はいま忍耐というものを人間の重大なる徳だとしみじみ感ずるものである。熱心な信仰家の持つ謙遜な忍耐、あのピルグリム・プログレスの巡礼の持つ隠忍にして撓《たゆ》まぬ努力の精神、それに私は感服する。苦痛と悲哀との底よりいかにしてかかる忍耐と、努力と勇気とが生ずるのであろうか。その理由、その過程の内には深き宗教的気分が宿されてると思われる。私はそれに心惹かるる。あの『決闘』のナザンスキーがロマショーフに死を止むるときに語ったごとき生の愛着はけっして単なる享楽的気分より出で来るものとは思えない。人間の真の悲哀と精神的苦痛とは享楽できるものではない。ナザンスキーのよくも主張せし絶対的なる生の愛着は享楽主義を越えたる宗教的意識でなければならない。
「ああ私は血まみれの一本道を想像せざるを得ぬ。その上をいちもくさんに突進するのだ、力尽きればやむをえない。自滅するばかりだ」私は恋愛の論文を結んでかく言った。しかしながら今にして思えばそは不謹慎なる表現であった。私の自滅すべかりし時は来ている。私は戦うに怯懦《きょうだ》であり、また時機を失したとはどうしても思えない。私は戦い敗れた。外部からの強暴な敵(私は病気をも外部と感ずる)と戦ってデスペレートな私は、内部よりの敵(彼女の変心)に遭《あ》って根本的に敗れてしまった。すべての事情は矢のごとき速度で見るまに究極まで達した。その推移はじつに運命的な性質を帯びていた。私は私の愛そのものにそむかずしてはもはや毫釐《ごうり》の力もない。しからば私はなぜ自滅しないか。死が実感として目の前に来た私はまだ死ねない自分を明らかに認めた。それは本能的な死の恐怖に打ち克《か》たれるのだという人もあろう。失恋が絶対的の暗黒とならないからだという人もあろう。あるい
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