ヘそうかもしれない。しかしながら私にとって最も痛切なる理由は自殺が私に最深の道徳的満足を与えないことである。最終までの努力感を与えないことである。みずからをほめる心地になれないことである。そのもたらす波動が彼女、彼女の老親、私の父母、私の運命的なる友の中に内在する私の自己にそむく苦痛である。他人の内に見いだされたる自己はあんがい強い。私は義理人情《ヒューマニチー》の抜きがたき根底を痛感する。個人主義なるがゆえに自己のことのみ考えればいいというような説は抽象的なものである。かかる性格がもし芸術において描かるるならばそれはストリンドベルヒの排斥するいわゆる Abstrakter Charakter である。実在の性格ではない。私はあくまでも Morality というものを|気にかけて《インテレッシーレン》生きたい。私は人間の究極の立場をモーラリチーの中に置こうと思ってる。人間に与えらるる自由というものがあるならば、それは道徳的自由のほかに確実なるものはない。その他の自由は皆意志に対抗する外部の力すなわち運命によって毀《こぼ》たるるものである。運命の力がいかに強いか、私はつくづく腹に沁んだ。運命に対して確実に、むしろこれにあたってますます光輝を放つものはモーラリチーのほかにない。カントが天空の星群の統一とならび称えたる強い、深い意志の自律の法則のほかにはない。単に苦しいとか安易なとかいうことよりいわば、運命の拙い人、ことに運命を直視して生きるほど生活に生真面目《きまじめ》なるものにとっては、死の望ましきことは幾度もあるに相違ない。今の私だって生きてる方が苦しくないとは思わない。あの独歩の「源おじ」を包んだ冷酷な運命を見よ、彼が首を絞って死んだのを誰が無理と思おう。しかも私らは「源おじ」をして最後まで生きしめねばならない。かく主張し得る道徳的根拠をエアレーベンしたるものを生の信者と呼ぶならば、私は生の信者として生きたい。
今私の目に映る人生の事象は皆いたましい。が中につきても人間と人間との接触より生ずる不調和ほどいたましいものはない。世の中にはそんなに悪い人がいるものではない。ドストエフスキーの『死人の家』などに出て来るような生来の悪人はむしろ病的な人である。またかかる本来の悪意より生ずる悲劇は最も単純な、そして悲劇性の少ないものである。最も堪えがたき悲劇は相当に義理人情ある人々の間に起こる不調和である。人間の触るるところ、集まるところ、気拙《きまず》さと不調和とにみちている。いやもっと深刻な残冷な、人間の当然な幸福と願い――それはけっして我儘なのではない、人間として許されていいほんの僅かな願いをも圧し潰《つぶ》してしまうような不調和がある。みずからその災害を被らずとも、世界を調和あるコスモスとして胸に収めて生きたいヒューマニストにとってはこれはじつに苦痛なことである。そこには人間の切なる情実の複雑な纏絡《てんらく》があるだけに、ほとんどこれのみにて人をして厭世観を抱かしむるほどの悩みの種となるものである。しこうして私は実際に私の幸福と願いとを奪却せられた。私の願いとは愛する女と mitleben して、そこに生活の基礎を置き人間としての発達を遂げんことであった。深い善い幸福がその中に宿るべきであった。
この一年間の私の心の働き方はじつに純なものであった。愛と労働と信仰――人間として、また私の個性の行くべきまっすぐな道に私は立っていたに相違ない。それでなくてはあれだけの充実は感ぜられない。それがめちゃくちゃに押し崩されてしまった。信じて築いた私の精神生活、それが崩壊するまでに私の遭遇した事実は人生の恐るべく寒冷なる方面のみであった。失恋と肺結核と退校とに同時に襲われて生きる道を知らず泣き沈める一個の生命物、それが小さな犠牲といわれようか。
私は恋人から最後の手紙を受け取ったが、私は生まれてからかかる冷淡ないやな性質の手紙を見たことがなかった。その手紙には「罪なき妾《わらわ》にまたいうなかれ」と書いてある。当面の責任者さえ罪を感じていないのだもの、その他の人々がなんで罪を意識していよう。
一個の「罪」も存在せずしてこれだけの犠牲が払われたとすれば、それを社会の不調和に帰するほかはない。これだけの犠牲は誰が背負わしたのか。私が背負わしたというものは一人もない。人生はじつに寒い。人の心は信じがたい。まことに私の経験した事実は私にとっては怖るべきものであった。
しかしながら私はその寒さと怖ろしさとの中におののきつつ、死の不安に脅かされつつ、なお、「生」の調和に対する希望を捨てることができない。いなますますその願望を確かにしたような気がする。世界には寒い恐ろしい事象がある。酷《むご》たらしい犠牲がある。錯雑した不調和がある。しかしなが
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