ノ於て悪なのではない。実在体系の矛盾衝突より起るのである。罪悪は宇宙形成の一要素である。罪を知らざる者は真に神の愛を知ること能《あた》はず、苦悩なき者は深き精神的趣味を理解する事は出来ない。罪悪、苦悩は人間の精神的向上の要件である。されば真の宗教家は是等《これら》のものに於て神の矛盾を見ずして却《かへ》つて深き恩寵を感ずるのである。(善の研究――四の四)
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といっている。かくて氏の哲学は一の楽天観をもって終わっているのである。
五
私らは哲学の批評に関して芸術的態度をとりたい。人を離れて普遍的にただその体系が示す思想だけを見たくない。興味の重点をその体系がいかばかり真理を語れるかという点にのみおかずして、その思想の背後に潜む学者の人格の上にすえつけたい。古来幾多の哲学体系は並び存して適帰するところを知らない。もし哲学をただ真理を聞かんがためのみに求むるならば、かくのごときは哲学そのものの矛盾を示すというような非難も起こるであろう。しかしながら哲学はその哲学者の内部生活が論理的の様式をもって表現された芸術品である。その体系に個性の匂いが纏うのは当然のことである。私は西田氏の哲学を、氏の内部生活の表現として、氏の人格の映像として見ることに興味を感じて読んだのである。また氏の哲学ほど主観の濃く、鮮やかに、力強く表われたものはあるまい。『善の研究』は客観的に真理を記述した哲学書というよりも、主観的に信念を鼓吹する教訓書である。敬虔にして愛情に富み、真率にしてやや沈鬱なる氏の面影がいたるところに現われている。氏の哲学の特色はすでに述べたから、ここには繰り返さない。ただいいたきことは氏の哲学には生物学的の研究が欠けていることである。たとえば生殖というような大問題には少しも触れてない。愛に関しては多く論ぜられてるけれど、それはただキリスト教的な愛についてであって、性欲の匂いの籠った愛については何の説くところもない。ことに永遠の大問題である死に関して何事をも語らないのには大きな不満を抱かないではいられなかった。『善の研究』の書き替えらるるときには Leib に関する深い、新しい研究の結果が添えらるることを望んでおく。
終わりに臨んで私は力強く繰り返したい。氏の哲学には生命の脈搏が波打ってる。真面目なる、沈痛なる力がこもってる。しかも
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