B氏は『宗教的意識』のなかにシュライエルマッヘルを引いて、宗教の認識論的研究の必要を説いているが、まことに氏の宗教は認識論をもって終始している。認識論より宗教に入る者の帰着点はどうしても Pantheism のほかにはないように思われる。ことに氏のごとき体系の哲学においては汎神論はほとんど論理的必然であるといってもいい。宇宙は唯一実在の唯一活動である。その活動の根底には歴々として動かすべからざる統一がある。宇宙と自己とは二種の実在ではない。純粋経験の状態においてはただちに合して一となる。すなわち宇宙の統一力はわれらの内部にあっては意識の背後に潜む統一力である。この統一力こそ神である。われらがいかにしてこの神を認識し能うかについてはすでに氏の認識論を考察するときにこれを述べたから、ここでは主として神の本質について考えてみよう。
 第一に神は内在的である。すなわち神はこの世界の外に超越して、外より世界を動かす絶対者ではなく、世界の根底に内存して、内より世界を支え世界を動かす力である。氏の哲学においては現象界の外に世界はない。たとい世界の外に超然として存在する神ありとするも、それはわれらになんらの交渉もなき無も同様である。われらの生命に直接の関係を有し、われらの内部生活に実際に力強く働くことを得る神はわれらの生命の奥底において見いださなければならない。
 第二に神は人格的である。宗教として論理的に最も徹底せるものは汎神論であることはほとんど疑うべからざる事実である。しかしながら、そのいわゆる神は単に論理上の冷ややかなる存在であって、われらの温かなる憑依《ひょうい》の対象となる人格的の神ではないのであろうか。氏によれば敬とは部分的生命が全部生命に対して起こす感情であり、愛とは二人格が合一せんとする要求である。しからば敬愛の情は人格者を対象としてのみ起こり得る意識である。われらが神に対して敬虔の情を起こし、また神の無限の愛を感得することができるためにはその神は必ず人格的でなければならない。しからば汎神論の宗教において神はいかなる意味において人格的であるか。この問に答うるためには人格という概念の意味を明らかにしなければならない。われわれは普通内に省みて特別に「自己」なるものがあるように考えている。しこうしてこれより類推してどこに神の「自己」があるかと問うのである。しかしながらか
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