フ美を増すがごとく、もし達観すれば世界は罪を持ちながら美であるといっている。われらはライプニッツ以来議論の多いこの説明が、この世界より悪の存在を除き去るに完全なるものとは思わない。そこには種々の疑問が挾み得るであろうが、氏のごとく自然の円満と調和とに純なる憧憬を有する人にとっては、その企図の方針はむしろ当然のことであると思う。氏にとりてはもともと精神と自然と二の実在があるのではない。両者はただちに唯一実在である。その実在の統一力が神である。自己の本然的要求は神の意志と一致するのである。宇宙は唯一実在の唯一活動であり、その全体は悪を持ちながらに善である。

       四

 宗教は自己に対する要求である。自己を真に生かさんとする内部生命の努力である。欠けたるものの全きを求むる思慕である。みずから貧しくして、偽りに満ち、揺らめきて危うきを知る謙遜なる心が、豊かにして、まことに、金輪際《こんりんざい》動揺せざる絶対の実在を求むる無限の憧憬である。一人|※[#「螢」の「虫」に代えて「几」、75−13]然《けいぜん》として生きるに耐えざる淋しき魂が、とこしえに変わらざる愛人と共に住まんと欲する切なる願いである。氏はその宗教論の冒頭に宗教的要求という一章を掲げて、宗教がいかに真摯《しんし》に生きんとする者のやみがたき要求であるかを述べて次のごとく言っている。

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 宗教的要求は自己の生命に就《つい》ての要求である。我々の自己が相対的にして有限なるを知ると共に、絶対無限なる力に合一し之《これ》に由《よ》りて永遠の真生命を得んと欲するの欲求である。パウロがも早《はや》我生けるにあらず、基督《キリスト》我に在《あ》りて生けるなりと言つたやうに、肉的生命の全部を十字架の上に釘《くぎづ》け終りて独《ひと》り神によりて生きんとするの情である。真正の宗教は意識中心の推移によりて、自己の変換、生命の革新を求めるの情である。世には往々|何故《なにゆゑ》に宗教は必要であるかなどと問ふ人がある。併《しか》しかくの如きは何故に生きる必要があるかと問ふと同様であつて、自己の生涯の不真面目なることを示すものである。真摯に生きんとする人は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずには居られないのである。(善の研究――四の一)
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 宗教は氏の哲学の終局であり、根淵である
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