ョ因をわれらの生活基礎を確実にし、価値意識を純化せんとする真面目なる動機に発したものではあるけれど、その思索の過程にはたしかに概念的の錯誤が横たわってるのである。
第一に彼らはわれらの意識現象を時間のなかに生滅するものと考えている。第二に時間を空間に翻訳して若干の単位に分割し得るものと考えている。
しかし時間はわれらの意識現象を統一するために主観が設けた概念である。時間のなかに意識があるのではなく、意識の上に時間が支えらるるのである。意識を離れてただ抽象的に、延長のみ考えるならば、時間のなかに過去と未来とより切り放たれたる独立せる現在、すなわち刹那なるものが立て得らるるであろう。しかし事実として時間は意識をもって填充せられている。時間の推移とは意識現象が一の統一より他の統一へと移り行く過程であって、それは流動的なる純粋の継続であって分割すべからざるものである。その統一の頂点が常に「今」であるが、その今はそれ自身過去と未来との要素を含んでいる。一つ一つ併列して互いの外にある幾何学的の点のような刹那というものはどこにも存在しない。意識現象はいかに単純であっても必ず組成的である。すなわち複雑なる要素を含んでいる。これらの要素は孤立的でなく互いに相関係して意味を持っている。一生の意識もかくのごとき一系統である。われらの本然的なる要求もけっして孤独に起こるのではない。種々の要求は互いに相関係している。その全体の統一がすなわち自己である。ゆえに一時のまた個々の要求を断片的に満足せしめるのが善ではない。善とは全体としての一系統の本然的要求、換言すれば全部生命の要求を満足せしめることである。その全部生命は知情意を統一せる不可分の有機的全体である。これを人格と名付けるならば善とは人格の要求の実現である。けっして断片的なる官能的欲望のみの充足を言うのではない。
西田氏の倫理思想は一言にして蔽えば人格的自然主義である。この人格的自然主義は享楽主義よりもいっそう根本的なる深刻なる基礎に立つものである。生命の底にいっそう深く根を下ろしたる気分より起こるものである。快苦は衝動の充足さるるか否かによりて生ずる感情であって生命の第二義的の産物である。第一義的の価値は衝動そのものである。自然主義は衝動そのもののなかに価値の重点を置くのである。快苦は後より生ずる結果である。自然主義は生命の内部よ
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