ニが一致してるのである。善事を行なうにしても、善行をなしつつあることを意識せる間はその徳がただちにその人の本性となってるのではない。孔子が心の欲するところに従うて矩《のり》を踰《こ》えずといったごとく、自然のままに行ないしことがただちに徳に適ってるときその人は真に徳を会得しているといい得る。徳の知識が本性の内に体得されているがゆえに、自然のままの行がただちに徳と合するのである。真実の知識はただちに行為を誘うて自然にして無意識なる自発自展を開始する。このときは現前唯一の事実あるのみである。知識はその中に包摂されている。よく知らざるがゆえに知るのである。かくして自然と自覚と自由とは純粋経験の状態においてただちに融合して一如《いちにょ》となるのである。
善は自己が自己に対する要求である。われらは他人のために善をなすのではない。自己の人格的要求に促されてなすのである。罪悪を犯ししときにきたる内心の苦悩は他人の上に被らせし害悪を傷《いた》むのではない。自己の人格の欠陥と矛盾とを嘆くのである。善行をなししときにくる内心の喜悦は、その結果として起こる他人の幸福に対してでもなく、自己の上に返るべき報酬に対してでもなく、全く自己の人格の完成、向上に対する純なるたましいの喜びである。真正なる善は自己の人格を対象とせる観照的意識より生じなければならない。われらの意志の上にかかるおのれみずからの要求でなければならない。西田氏の倫理思想は真新なる意味における個人主義である。
しからば善の内容をなすものは何か。それはわれらの生命の本然的要求である。価値は要求に対する合目的性である。道徳的判断が一の価値判断である以上、それが要求を予想してることはいうまでもない。しこうしてその要求なるものはそれ自身価値の尺度であって、評価の対象にはならない。いいとか、わるいとかいう差別を超越したものである。それはただわれらに与えらるるものである。自然にわれらに備わる性質である。じつにこの本然の要求こそわれら自身の本体である。Wollen を離れては Sollen は無意義である。善が所有する命令的要素はこの自己本然の要求の上に求めるほかはない。われらに本然に備われる要求は動かすべからざるザインであって同時にゾルレンの根源をなすものである。Du sollst という声がもし外部よりわれらを襲うならばわれらはニイ
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