翌感ずるのである。われらの有する自由は後者のごとく内面的必然の自由である。内面的に束縛せらるることによりて、外面の事由より自由を獲得するのである。自己に忠実であり、自己の個性に対して必然であり、おのれみずからの法則に服従することによりて自由を得るのである。しかしここに大きな問題が頭を擡《もた》げてくる。もし自己の内面的性質に従って動くのが自由であるならば、万物みな自己の性質に従って動かぬものはない。水の流るるも、火の燃ゆるもみな自己の内面の性質に従うのである。しかるにわれらは何ゆえに自然現象をば盲目的必然の法則に束縛せられているというのであるか。氏のいわゆる必然的自由は Mechanism と危くも顔を見合わせているといわねばならない。しかしながら内面的必然と器械的必然の間には鮮やかな一線が横たわっている。その人類の隷属と自由との境を画する月にきらめく銀流のような一線は何であるか。それは認識である。生命の自己認識の努力である。じつに西田氏ほど認識を神秘化した哲学者はあるまい。認識は氏の哲学のアルファでありまたオメガである。氏によれば認識の性質のなかに自由の観念が含蓄されている。自然現象においてはある一定の事情よりは、ある一定の現象を生ずるのであってその間に毫釐《ごうり》も他の可能性を許さない。全く盲目的必然の因果関係によりて生ずるのである。しかるに「知る」ということには他の可能性が含まれている。歩むことを知るというには歩まずとも済むという可能性が含まれている。われらの行為がたとい必然の法則によりて生ずるともわれらはみずからそれを知るがゆえに自由なのである。われらは他より束縛せられ、圧抑せらるるとも、みずからそのやみがたき事情を知るときにはその束縛、圧抑を脱して安らかな心を持することができる。天命の免れがたきを知り、自己のなすべき最善のことをなして毒盃を含んで自殺したるソクラテスの心境はアゼンス人の抑圧を超越して悠々として自由である。氏はパスカルの語を引いて、「人は葦《あし》のごとく弱し。されど人は考うる葦なり。全世界が彼を滅ぼさんとするとも、彼は死することを自知するがゆえに、殺す者よりもとうとし」といっている。われらはここにおいて認識なるものに対して驚異の目を見張らざるを得ない。認識能力が人間の無上の天稟であり、めでたき宝であることを思い、認識が人生において占有す
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