豊かに、潤いて、物なつかしく、深くして、不思議にした。氏の哲学はじつに概念の芸術であり、論理の宗教である。
三
われらが自己に対して最高の尊敬の情を感ずるのは、われらが道徳的意識の最深の動因によりて行動したりと自覚するときである。われらが自己の胸底に最醇の満足を意識するのはみずから正善の道を蹈《ふ》めりと天に対して語り得るときである。われらが自己の生命の発露に最も強き力を感ずるのは、自己の内面的本性の要求に従いて必然的に動きし刹那である。万人はことごとく詩人たり、哲人たるを要しない。ただあらゆる人間は善人でなければならない。道義の観念は全人類に普汎的に要求さるべき人間最後の価値意識である。われらは善人たらんとする意志の燃焼を欲する。ただわれらは因襲的なる不純、不合理なる常識道徳の束縛に反抗する。天地の間に大自然の空気を呼吸して生ける Naturkind として赤裸々なる心をもって真新なる道徳を憧憬する。われらが渇けるがごとくに求めつつある善の概念の内容は自然の真相と性情の満足とに併《あわ》せ応うる豊富にして徹底せるものでなければならない。
西田氏がその著に冠するに『善の研究』の名をもってしたのはこの問題が思索の中心であり、根本であると考えたからである。
道徳的意識は当然意志の自由という観念を予想してる。これを認めないならば道徳は所詮迷妄にすぎない。ある動機よりある行為が器械的必然に決定せらるるならば、われらはその行為に対して責任の観念を有することは不可能だからである。氏はまず意志の自由を承認しかつその範囲および意義をきわめて徹底的に研究している。氏は意志の自由の範囲を限定して、観念成立の先在的法則の範囲において、しかも観念結合に二個以上の道があり、これらの結合の強度が強迫的ならざる場合においてのみ全然選択の自由を有することを明らかにした。さてしからば自由の意義|如何《いかん》。
自由には二種の意義がある。一はなんらの原因も理由もなく、偶然に動機を決定する随意という意味の自由である。他は自己の本然の性質に則《のっと》り、内心の最深の動機によりて必然的に動く内面的必然という意味の自由である。もし前者のごとき意味において自由を主張するならば、それは全く迷妄であるのみならず、かかる場合にはわれらはその行為に対して自由の感情を意識せずしてかえって強
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