黷ホ通俗的な何々講習会の講演の原稿が美装を凝《こ》らして現われたのにすぎない。著者の個性のあらわれた独創的な思想の盛りあげられた哲学書はほとんどない。深刻な血を吐くような内部生活の推移の跡の辿《たど》らるるような著書は一冊もない。そればかりではない。彼らは国権の統一にその自由なる思索の翼を搦《から》まれている。ローマ教会の教権が中世哲学に累《るい》したごとく、国権がわが現今の哲学界を損うてる。彼らの倫理思想のいかに怯懦《きょうだ》なることよ。彼らは蒼《あお》い弓なりの空と、広くほしいままに横たわる地との間に立って、一個の自然児として宇宙の真理を説く思想家ではない。それどころではない。われらと同じく現代の空気を呼吸して生き、現代の特徴をことごとく身に収めて、時代の悩みと憧憬とを理解せる真正なる近代人さえもまれである。彼らはわれら青年と mitleben していない。両者は互いの外に住んでいる。その間にはいのちといのちの温《あたた》かな交感は成り立たない。
 この乾燥した沈滞したあさましきまでに俗気に満ちたるわが哲学界に、たとえば乾からびた山陰の瘠《や》せ地から、蒼《あお》ばんだ白い釣鐘草の花が品高く匂い出ているにも似て、われらに純なる喜びと心強さと、かすかな驚きさえも感じさせるのは西田幾多郎《にしだきたろう》氏である。
 氏は一個のメタフィジシャンとしてわが哲学界に特殊な地位を占めている。氏は radical empiricism の上に立ちながら明らかに一個のロマンチックの形而上学者である。氏の哲学を読んだ人は何人も淋しい深い秋の海を思わせらるるであろう。氏みずからも「かつて金沢にありしとき、しばしば海辺にたたずんで、淋しい深い秋の海を眺めては無量の感慨に沈んだが、こんな情調は北国の海において殊にしみじみと感じられる」と言っていられる。まことに氏の哲学は南国の燃え立つような紅い花や、裸体の女を思わせるような情熱的な色に乏しく、北国の風の落ちた大海の深い底を秘めて静まり返ってるのを見るような静穏なものである。その淋しい海の面に夢のように落ちる極光のような神秘な色さえ帯びている。色調でいわば深味のある青である。天も焦《こ》げよと燃えあがる※[#「火+稻のつくり」、第4水準2−79−88]の紅ではなく、淋しい不可思議な花の咲く秋の野の黄昏《たそがれ》を、音もなく包む青ばん
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