タにせんがために、表現の道を外に求めて内に蠢動《しゅんどう》する。いうまでもなく芸術と哲学とはこの内部生命の表現的努力の二途である。ただ前者が具体的に部分的に写出する内部経験を後者は概念の様式をもって、全体として(as a whole)統一的に表現するのである。かくて得られたる結果は内部生命の投射であり、自己の影であり、達せられた目的は生命の自己認識である。
 われらの生命は情意からばかりはできていない。生命は知情意を統一したる分かつべからざる有機的全体である。われらの情意が芸術のはなやかな国に、情緒生活の潤いを追うてあこがれるとともにわれらの知性は影の寒い思索の境地に内部生命の統一を求めて彷徨しなければならない。じつにわれらは日々の現実生活において血の出るような人格の分裂を経験せずにはいられない。この素《もと》より分かつべからざる有機的なる人格が生木を割くがごとく分裂するということはわれらの生命の系統的存在の破壊であって、近代人の大きな悩みであり、迷いでなければならない。なんとなればすべて生命あるものは系統的存在であって、系統の破壊はただちに生命そのものの滅却であるからである。これじつに空疎なる主観と貧弱なる周囲とがもたらす生命の沈滞荒廃よりもわれらにとっていっそう切実なる害悪であり、苦悩である。
 このゆえにちぎれちぎれの刹那に立って、個々の断片的なる官能的経験を漁《あさ》りつつ生活の倦怠より遁《のが》れんとする刹那主義者はしばらく措《お》き、いやしくも全部生命(whole being)の本然的要求の声に傾聴して統一せる人格的生活を開拓せんとする真摯なる個人は必ず芸術とともに哲学をも要求せずにはいられない。これじつにわれらの飽くことを知らざる知識欲の追求にあらずして、日々の実際生活に眉近く迫れる痛切なる現実の要求である。ここにおいてわれらは大いなる期待と要求とをわが哲学界の上に浴びせかけねばならなかった。
 わが国の哲学界を見渡すときに、われらはうら枯れた冬の野のような寂寥《せきりょう》を感ずるよりも、乱射した日光に晒《さら》された乾からびた砂山の連なりを思わされる。主なき研究室の空虚を意識せぬでもないが、それよりも街頭に客を呼ぶあさはかな喧騒を聞くような気がする。近代の苦悩を身にしめて、沈痛なる思索をなしつつある哲学者はまことに少ない。まれに出版される書物を見
前へ 次へ
全197ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング