こそ作者がその作を書いた生命であって、そのほかの点で褒《ほ》められても貶《けな》されても作者の心には適わないものである。人はあの西国巡礼の歌を聞くとき、それに強い劇《はげ》しさが現われていないからと言ってそれを貶するであろうか。もしそういう人があったら、その人の気持ちはあの巡礼の歌を聞くのに適わしくないというまでのことである(もとよりそういう気持ちでないときも、またそういう気持ちにばかりなっていられないときもある)。人生に対する悲哀と無常の意識――それはもはや滂沱《ぼうだ》たる涙となって外に流れないけれども、深く深く心のなかに内攻し、その人の世相を眺める目はかぎりなき悲しみを内に秘めているような気持ち、いわば一種の喪の気持ち、そういう気持ちであの芝居を見てくださることを作者は望む。それは人生を享楽する気持ちではむろんない。人生において戦う気持ちでもない。人生を観照するという気持ちはやや近いがやはり違う。愛を内に湛《たた》えた目でこの世のあるがままの相を眺め護る、いわば人生の相のなかに仏を見いだす心持ちである。そういう心持ちであの芝居は見て貰いたい。あの作のモチーフはそこにある。それ以外の視点では見てもらってもつまらない気がする。むろん私が他のモチーフから作をすることはあろう。しかしあの作はそういうモチーフで書いたのである。たとえば釈迦の臨終に蛇や鳥の泣いている画を見て母親に尋ねる子供、その子供の着物を縫いながら画解《えと》きをしてやる母親の心、あるいはまた師の体に雪の降りかかるのを、自分の衣で蔽うようにする若い弟子の僧の心、そういう心持ちあるいは光景がただちに見る人の感覚の興味とならなくてはならない。その光景の意味を考えてしかる後初めて是非の判断をするような人は一般に劇を見るのに、ことにあの劇を見るのに適わないものである。
私はあの作において、人間の種々の貴き「道」について語り得ていることは私のひそかに恃《たのみ》としているところではあるが、それは「道」を説くために[#「説くために」に傍点]書いたのではなく、生活に溶かされたる「道」の体験を書いたのである。第四にあの作は人間の細かな心持ちのさまざまな相やニューアンスの展開であって動作に乏しい。それもハンドルングばかりに動かされるようなことではあの作はおもしろくないに違いない。純な、潤うた、細々とした心を作者は観客に
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