覚を擽《くすぐ》りて、いかにわれをして試みんとする春の旅の楽しきを思わしめしよ。わが友よ、御身と逢うの日は近く迫り来れり。わが心は常に哲学を思い、御身を慕えり。じつにわれらの間の友情はかの熱愛せる男女の恋にも勝《まさ》りていかに纏綿として離れがたく、純乎として清きよ。夜半夢破れて枕に通う春雨の音に東都の春の濃《こま》やかなるを忍ぶとき、御身恋しの心は滲《にじ》むがごとくに湧き出ずるなり。今宵月白し。花紅き籬《まがき》のほとり、行人の声いと懐し。
大船で訣《わか》れるとき、訣れの言葉をも交さず、またお互いに訣れるのだということも知らないで訣れるのなら好いと思った。しかし君と僕とはきまりの悪い、辛そうな顔して訣れた。汽車がゆるゆる動き出す。君が窓に肱杖突いてこちらを見てる。僕がときどき後を振り向く。そのたびごとに君の姿が遠く小さくなる。そのうち君と僕とは全く訣れてしまったのである。手持無沙汰に、あの麦藁帽子を被って、あのマントとあの袋とを携えて、プラットホームの一隅に四十分もつくねんとしていた僕の姿をば、三日前の夕暮れには共に暢々《のびのび》して眺めた風景にこのたびは君一人で面接しながら察してくれたであろう。
とにかく再び汽車に乗った。君と別れて取り放されたように淋しく疲れた私の胸はまたもややるせない倦怠に襲われねばならなかった。
明くれば五日黎明、しとしとと降る京の雨の間を走る電車に乗せられて私はS君の宿を訪るる身であった。朝飯をすまして私とS君とは春雨に烟った東山に面する一室に障子を閉め切って火鉢を隔て向き合う。私が鎌倉、逗子、東京の近況、君やH子さんのことなど話して聞かす。しかし楽しく暖かく君と遊んできた私には、その後は淋しくもあり、悲しくもありしてならなかった。S君と私との間にはかなりぼんやりしてる一枚の帷《とばり》が下がってる。S君は気のおける人だ。うち解けてくれない。どうしたらS君と心おきなく楽しく話せるのだろうかと思わざるを得なかった。君の言葉を借りて言えば、S君の感情はルードである。どうかするとS君のこの傾向が鋭く感じられたので京都においてはただ自然美に恵まるるのみであった。夕暮れ、私ら二人は知恩院を訪うた。雨晴れの夕暮れの空に古色蒼然たる山門は聳えていた。ああこれぞ知恩院である。山門であると思いながら、私共はそれを潜った。春雨を豊かに吸うた境内
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