フ愛を自分は親に対し持っているのか? いな子供には親に対する本能を自然から賦与されていない。自分にどうして親を責める資格があろう。ここにおいて自分は親に対しても特別に親としての期待を持ち、親に親としての愛の義務を負わせることをしないで、隣人としての関係をもって対したくなる。そして親から受けている愛は十分に感謝し、親の不徳は不徳として認め、自分の親に対して愛の足りないことは、自分の不徳として謝したく思う。
世の中には子供のエゴイズムは知っていても親のエゴイズムを知っている人は少ない。けれども親には子に対してどれほど多くのエゴイズムがあるであろうか。自分の恋が破れたのも彼女の母親の娘に対するエゴイスチッシュな本能的愛のためであった。親には子に対して自然から本能が与えられてある。親が子を愛するのは何の苦もなくすらすらと愛し得られる。特別に賞むべき行為とは思われない。それよりもその本能的愛が運命に対する知恵によって深められて、隣人の愛とならざる以上は、神に対し、子供に対し、また他人に対して種々のエゴイズムを生むのである。たとえば子といえども独立した一個の人間である以上は神に属している。その子供には神の使命がある。親がその点を考えないために子供の上に神意の現われんことを待たないで、みだりに自己の欲するままの傾向に育てようとする。そしてことにベルーフに関しては医者にしようとか法律家にしようとか勝手に決めようとする。聖書によればマリアはイエスがキリストとしての使命のあることを始めより告げられている。けれど、すべての母は皆マリアのような心地でその子を育つべきである。しかし事実はこれと反している。母親は本能的愛であたかも牝牛《めうし》がその犢《こうし》を舐《な》めるがごとく、自己の所有物のごとく、ときとしては玩具のごとく愛する。自己の個性を透し型にはめて愛する。もし隣人としての地位を自覚するならば子供の恋愛に対しても子供の自由を尊重すべきはずである。聖書にも「神の※[#「耒+禺」、第3水準1−90−38]《まぐ》わせたまう者は人これを放つべからず」と録してある。しかるに親は、ことに母親は自分の例でいえば、その娘の結婚に関して自分の個性、希望、趣味を透して干渉する。そしてそれを愛の名によってしながら自分の娘と娘の恋人とをいかに不幸にするかを考えない。もしそれ他人に対する親としてのエゴ
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