ネく、人間性の純なる念願の満たされざる悲哀に浄化されている。愛と運命との悲哀である。もはや私一個の悲哀でなく、人間のものとしての悲哀である」と。そして自分の悲しみが、かくのごとく、個性にはなれて普遍的なものになってゆくに従って、それは両親にはますます縁遠いものになる。それが理解されないで、手近のもので自分を慰めようとするのは無理のないことである。それだからといって淋しいのは淋しい。この間も自分がただ独り悲しみに浸っていたとき、母が来て、「おまえも淋しかろうからお嫁を持て」と勧めて行った。自分は後で深い寂寞に襲われた。これは自分のいちばん悲しいところに触れる問題であったからだ。自分は母の自分の心を汲むことの浅いのに腹立たしくなりさえした。自分は母からすすめられるまでもなく、嫁は持ちたかったのだ。けれどそれができなかったのだ。それは母は熟知しているはずである。自分の結婚問題が惨めに失敗したとき、両親のあきらめ方はまことに呑気なものであった。どうにかして彼女を嫁に貰ってやろうと骨を折ってはくれないで、すぐにあきらめさせてやろうとした。自分の結婚問題には気乗りがしなかったのだ。そしてそのことが自分にとってはどのような深い悲しみになっているかは思わないで、何の苦もなく今になってから自分に嫁を持てと勧める。それも自分で勝手に探して、私の病気などむろん隠して、世間並みの仲人結婚を勧めようとする。そのくせ自分がもし淋しさに堪えかねて一度でもトリンケンに行きでもしようものなら、どんなに厳しく叱るのだろう。そして自分はこの上もなくわが子を愛していると信じている。そして世間も許している。――「やめてくれ!」と自分は叫びたくなる。「自分はもっと深く考えて暮らしている。もっと真面目に悲しんでいる。ああ届かぬ、届かぬ親の愛よ!」
 しかし考え直してみれば親を責める気にもなれない。心では自分を愛してくれているけれども、知恵が足りないのである。人間が平浅なのである。自分は親がいかにして自分を慰めようかとあせるのを見るときに、そこにはわが子の心を悟ることもできず、世間の習慣を突き切るだけの勇気も無く、「自然」より子に対する本能を与えられて、それに束縛されて苦しめる、憐れむべき凡夫を目前に見る。それが自分の肉身の親である。しからばその憐れなる親を救う力が自分にはあるのか? いな親が自分に持っているだけ
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