チて愛を求むる「人間らしき《ヒューメーン》」心に生ずるのである。そこに人生の不調和と永き悲哀の跡が辿《たど》られる。単に自分一人の安けさを求むるために人間が隠遁の願いを起こすことがあろうとは思われない。もし始めより自己のほかに興味を感ずることのできない、他人の愛を欲しない人間であるならば、おそらくその人には隠遁のスイートなロマンチックな気持ちは解らないであろう。隠遁は他人との接触に道徳的の興味を感ずる人、人懐かしき情緒の持主、かつては熱心に愛を求めたりし、優しき人間の心に起こる霊魂の避難所である。あたかも若き航海者が、平和なる海を望み見て、その海の彼方《かなた》なる理想の島を憧れ求めて船を乗り入れたが、そこには抵抗すべからざる潮流や、恐るべき暗礁《あんしょう》や、意地悪き浅瀬が隠されてあり、また思いもうけぬ風雨に会って帆は破れ、舵《かじ》は損じ、惨めな難破をかろうじて免れて、ようやく寄り着いた小さな港のごときものである。人間が隠遁の願いを起こすまでには、一度人生の行路に、愛の問題に躓《つまず》かなければならない。隠遁は自分一個の興味のみによっては成立しない、他人を予想して起こる情緒である。ゆえに人生の事象のうち、自己の興味に適せざるものを避け、自己に快よき人間を選び、快適なる場所に住まんとする心は隠遁ではない。利己的なる近代人が人生の過悪に目を塞《ふさ》ぎ、その煩雑を厭い、美しき女を連れて湖畔の水楼に住まんとするのは隠遁ではない。隠遁の願いはエゴイスチッシュな動機からは生まれてこず、あのトマス・ア・ケンピスのごとき、愛の深い、純潔な人の心に生まれるのである。
 自分はかつて人間の愛を求めた。燃ゆるがごとき情熱と、喘《あえ》ぐがごとき渇望とをもって、否あるときはむしろ乞食のごとき嘆願をさえもって! 友情と恋愛とはその頃の自分の生活の最も重要なる題目であり、最も奥底のいのち[#「いのち」に傍点]であり、また最も内部に燃えている火であった。ことに恋愛は自分にとっては一つの絶頂――宗教にまで高められた。恋愛のため今は何ものをも犠牲にして悔いず、また恋愛以外のものは何一つ無くとも飽和し得ると信じたほど恋愛に生きた。父母も、姉妹も、知己も、自分が一生をそのために捧げようと欲していた哲学さえも、ことごとく恋愛のためには贄《にえ》として供えることを辞しないほど恋愛に賭けた。そして恋
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