ネは独存しないものとし、その本質のなかにすでに他人を含めるものとしての自己を経験するならば――それは愛の意識である――そしてその体験より表現の動機を感ずるならば共存の芸術が成立し得るはずである。多くの人々の胸奥に響くことのできる芸術はかかる種類の芸術でなければならない。トルストイはかかる芸術のみを真の芸術であるといっている。ドストエフスキーの作品が単純で、そして万人の心に触れるのもその共存の博《ひろ》い感情があるからである。人間には普遍性がある。一つ造り主によって作られたる共通の血の音がある。私たちは苦痛や悲哀によって不純なエゴイスチッシュなものから浄められて、ある公けな生命を感ずるときには、この音を聞くことができる。そこまで掘りあてないのは感情が浅いからである。しかしながら隣人の愛を感じてくるときに私らの生活はにわかに複雑になってくる。さまざまな二元が生じてきて生活は著しく窮屈になる。一本調子の自由や、他人を顧みぬゆえの放逸は失われる。しかし真の自由はひとたびこの窮屈と二元とを経験して、後にくるものでなくてはならない。いわゆる無礙《むげ》の生活とは障害にひとたびは身動きもできないほど不自由を意識した人が努力の後に得たる自由の生活のことである。愛のない人は自分の欲するままを行なえばいいであろう。しかし他人の運命をおもんぱかる人はただの一つの行為でもジャスチファイすることはできなくなるであろう。「これは正しいからいたします」というよりも「これをしなくてもほかに間違いはないのではないからこれをいたします」といいたくなるであろう。私は親鸞聖人のものの考え方がわざとではなくて必然であったように思われだした。エゴイスチッシュな近代人はまず何よりも先きに隣人の愛を知らねばならない。しからば現在の放逸と傲慢とはみずから消失するであろう。実りある思想はその後にのみ熟してゆく。真の自由と知恵とはその後において初めて獲得される希望を持ち得るのである。
[#地から2字上げ](一九一五・一〇)
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隠遁の心持ちについて
真面目な謙遜な純潔な「こころ」をもって生きてゆく人間の胸に一度は必ず訪れるものは隠遁《いんとん》の願いであろう。この願いを一度も起こさないような人は人間と人間との接触について、おそらくデリケートな心情を持っているとはいえないであろう。じつにこの願いはかえ
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