オく見えて惨酷なものがじつに多い。それを見るとき私の心は憤りに慄える。慈善音楽会や、画家のモデル女や、動物試験のモルモットやこれらは嫌悪すべきものである。科学、芸術の名によって人間は最も惨酷のことをするのである。百万の人間を助けるために一匹の動物を殺しても善い理由はない。せめて「赦《ゆる》してくれよ」といって殺すべきである。美の創作のために一人の処女の羞恥《しゅうち》心を犠牲にしてもいいかどうかはまだ決まってはいない。貧乏人の娘を裸体にして若い青年が囲んで、そして物欲しそうな目や、好奇心の目で眺めているところを想像してみよ。これまことに嫌悪すべき光景である。そしてそれが美の名によってなされるとは! 美を支えたもう神はまた善をも支えたもう神である。そして善は人間のあらゆる意識の最終の法則である。美しきものは善きものを侵してはならない。かかることはまだけっして許さるべきこととして決定されてはいない。神様の裁きを待たねばならない。私ら人間がこの後に研究しなければならない問題である。私は野路を散歩するとき蛇《へび》が蛙《かえる》を食うているのをしばしば目撃する。そして心をうたれる。私はこれはこの世界の持つ一つの evil と感ぜずにはいられない。そしていかにすればこのできごとを持つ世界をコスモスと感じ得るかを考える。いかに考えれば胸が静まるであろうか。蛙が蛇に食われることによって蛙も蛇も幸福であるような考え方はあるまいか。今のところ私はこのできごとはあるがままでは世界の一つの evil としか感ずることはできない。ある人は言う。宇宙は一匹の蛙を失うことによって損失はしない。それによってより大なる蛇が成長するならば神の栄えを現わすことができる。すなわち宇宙の運行のためになんらかの novelty を創造するための犠牲として、蛙の死も蛇の殺生も神への奉仕であると。人間もかくして初めて今日の文明をつくった。この思想を是認せんとする人々はかなり多いようである。けれど私はこの思想で満足することはできない。蛙がキリストのように世界のためにみずからを獻《ささ》げそれを認めて、そして蛙の死骸を蛇が食うのなら私は得心する。蛙にはなんら自主的犠牲の観念もなく、また蛇にはそれを受け取る用意もなくして、強きものと弱きものとの間に行なわるる殺生は、私には依然として evil である。結果として、より
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