hの若い美しい女客や聘《へい》した芸妓とだけ話す。そしてそのような人でも文章を書くときには私の目には人類があると叫んで涙を浮かべることができる。けれどもその愛はじつに空しいものである。もとより私たちは人類を愛せねばならない。けれどキリストでも触れ合う人々しか愛することはできなかったのである。触れ合わない人は愛しないのではない。ただ触れ合うた人々を愛したのである。私たちは接触する個々の人々を愛しないならば何人をもじつは愛しないのである。愛という徳を自己のものとしたいならば、私たちは芸術品を作り出して与えるよりも先きに善きサマリア人のごとくに隣人に仕えることを学ぶべきである。百姓の爺や、自分の作をほめない男や、自分の興味を感じない人間を愛することを学ぶべきである。そのとき私たちは犠牲の味をしみじみと知るのである。また愛がついに祈りにならねばならない理由を知るのである。愛は自らを割きて人に与えることを求める。愛の十字架にはかぎりがない。それはじつにある場合には私たちの aesthetisch な要求をも捨てよと迫る。晴れやかな空を仰ぎたき願い、すぐれた書物を読みたき願い、をも捨てよと迫る。それ自身にはけっして悪しくない欲望をも隣人のためには捨てよと迫る。そのとき十字架は最も重い。ただ道徳的命令だけを除いて、すべての他のものは恋も、芸術も、科学も、ことごとく十字架の内容となり得るのである。ただ一人の隣人をでも徹底的に愛してみよ。その十字架はじつにかぎりがない。キリストは万人の個々のものに血を与えたのである。何もかも皆捨てたのである。「淋しきヨハンネス」の母親が、「この子の若いときには世のなかに貧しい人のいる間は学問などするものではないといって、何もかも売るといって困らせました」というのを読んで私は深く感動した。このような心持ちを一度も感じない人は愛の名によって芸術などに従う資格はないと思う。せめて愛の名によらず芸術に従うがよい。私が別府の温泉の三階の欄干にすがっていたとき、足下の往来を見ていたら、小さい女の子供が三人鼓を打って流して歩いた。私が気まぐれに、「あれを呼び入れて何かやらせましょう、慈善になるから」と言ったら、私の知人は「慈善になるからというのはよしてください。おもしろいからやらせましょう」と言った。私はそのとき穴へも入りたいほど羞《はず》かしかった。世の中には美
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