゙女の母親の盲目的にしてエゴイスチックなる愛であった。性愛がエゴイスチックな例はかぎりなくある。
 かかる愛は自己の要求をとおして愛せんとする不純なるものであって、弊害と迷妄とが続出するものである。またかかる愛は偏愛とならざるを得ないものである。私も一時彼女以外のものが皆一様に、無関心に見えて、長い愛の歴史のある友が顧みられないことがあった。今にして思えば友がそのとき立腹したのみならず、私が愛《ラブ》の人であることを否認したのは根拠があった。甲には理由もなく一朝にして冷淡となり、乙をばにわかに狂うがごとく愛するというがごときは、人に対して愛という感情の働く動因と初めより矛盾せるものである。真に愛《ラブ》の人とはキリストのごとき普汎的な愛し方をする人である。何ゆえに甲を愛して乙を愛せぬか。そこには他のプリンシプルが存在せねばならぬ。その原理に動かさるる間は純な愛の活動ではない。あるいはそれは「愛に入る過程」を抽象したるものであって、愛はその人が美しいとか、正直であるとか、憐れであるとか、あるいは長く接触したとかいうがごとき他の条件なくては、起こらぬという人があるかもしれない。しかしはたしてそうであろうか。何々なるゆえに、何々なる時に愛するというのが真の愛であろうか。愛はかかる条件と差別とを消して包括する心の働きではあるまいか。キリストは罪人をも、醜業婦をも旅人をも敵をも等しく愛した。その愛は絶対なる独立活動であった。またかかる普汎的なる愛は稀薄《きはく》にして愛された気がしないという人があるかもしれない。しかし愛は百人を愛すれば百分さるるがごとき量的なるものではあるまい。いな甲を愛してるということはその人が乙をもまた愛し得る証拠である。また普汎的なる愛が必ずしも稀薄だとはいえない。キリストの愛は血であった。万人と万物との個々のものに対してそれぞれに血であった。ああ人類始まって以来キリストにおよぶ偉大なる霊魂があったろうか。私は十字架の下に跪《ひざまず》くものである。もとよりかかる境地に達するは至難のことであり、ことには私のごとく煩悩と迷いの深い、友よりエゴイストと銘打たるるごとき者にその素質があるというのではない。私は「我」の人なるがゆえにいよいよキリストが打ち仰がれる。私の前にはキリストが金色の光に包まれて立っている。
 私は人心の頼みがたくして人生の寒冷なることを
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