轣Aこれらのものを持ちながら、「生」そのものはいっそう深い、強い、複雑な調和あるものと思うことはできまいか。これはライプニッツの予定調和の説などより独立に私には一種の実感的気分である。私はこの頃名状しがたき不幸に蔽《おお》われて暮らしている。人生の深き悲哀に触れたような気がする。しかしながらその悲哀は私に一種の永遠性を帯びて感ぜられる。私はマーテルリンクのように神秘を透して「永遠」に行く道を好まない。それはあまりに超越的な、むしろデヴィエイトした道のように思われるから。私はあくまでも公道を歩みたい。人間の人間らしき感情はもしそれが真実にせつにして深きものならば、皆「永遠」と連なっているように思われる。「永遠」とは時間の不断なる連続性をいうのではない。意識の侵徹せる全体性をいうのである。充実せる現在の宗教的なる生命感である。この「永遠」に触れたるとき人間にかなしき「悦《よろこ》び」があるのではあるまいか。悲しみつつ、苦しみつつ、生を賛美する心が湧くのではあるまいか。私の胸の奥にはこの頃一種のオプチミズムが萌《きざ》し初めたようである。それは青白い螢の光ほどの、ほんの微光にすぎないけれど、わが悲哀と孤独との後にぽっちりと輝いて見える。ペッシミズムというものは私にはそれ自身矛盾してるように思われ出した。厭世とは苦痛より起こる感情であってはならない。かかる厭世観は快楽なるがゆえの楽天観と同じく浅薄なるものである。真の厭世はその原因を生の無意義――存在の理由の欠如より発するものでなければならない。しかしながらかかる空虚の感が私には起こらなくなりだした。「生」は私にきわめてインハルトライヒに感ぜられだした。ああこのかなしき、苦しき、感動にみちたる世界が空虚だとは!
しかのみならず、存在の理由というものを徹底的に索《もと》むるならば、それは創生した力に帰すべきものである。一の現象が vorkommen したことがその現象の存在の理由である。ショウペンハウエルは厭世の起源を意志が、時空の方式を通じて現象として個体化したことに帰しているが、それは厭世理由にはならない。意志は何ゆえにかかる過程を経て現象として顕現したか、それは説明できない。顕現した力が存在の理由である。われらは生きている。生きながらに生を厭《いと》うとはいかなることを意味するのであるか。その指示する意味は私に矛盾の感
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