フ存在の方式は生命の原始より遠ざかりたるものである。第二義的なる不自然なる存在である。それ自身には独立自全に存在することのできないものである。これは個人意識が初めより備えたる欠陥である。愛はこの欠陥より生ずる個人意識の要求であり、飢渇である。愛は主観が客観と合一して生命原始の状態に帰らんとする要求である。欠陥ある個人意識が独立自全なる真生命に帰一せんがために、おのれに対立する他我を呼び求むる心である。人格と人格と抱擁せんとする心である。生命と生命とが融着して自他の区別を消磨しつくし第三絶対者において生きんとする心である。
それゆえに愛と認識とは別種の精神作用ではない。認識の究極の目的はただちに愛の最終の目的である。私らは愛するがためには知らねばならず、知るがためには愛しなければならない。われらはひっきょう同一律の外に出ることはできない。花のみよく花の心を知る。花の真相を知る植物学者はみずから花であらねばならない。すなわち自己を花に移入して花と一致しなければならない。この自他合一の心こそ愛である。
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愛は実在の本体を捕捉する力である。ものの最も深かき知識である。分析推論の知識はものの表面的知識であつて実在そのものを掴《つか》むことはできない。ただ愛によりてのみこれをよくすることができる。愛とは知の極点である。(善の研究――四の五)
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かくのごとき認識的の愛は生命が自己を支えんための最も重々しき努力でなければならない。個人意識がかりそめの存在を去って確実なる、原始なる、自然なる、永遠なる真生命につかんとする最も厳かなる宗教的要求である。この意味において愛はそれみずから宗教的である。かくてこそ愛は生命の内部的なる熱と力と光との源泉たることを得るのである。
私はO市の冬ごもりの間に思想を一変してしまった。我欲な戦闘的な蕭殺とした私の心の緊張はやわらかに弛《ゆる》み、心の小溝をさらさらとなつかしき愛の流れるのを感じた。私はその穏やかな嵐の後の凪《なぎ》のような心で春を待った。春が来た。私は再び上京した。
けれどもこの穏やかな安易な心の状態は長くはつづかなかった。私は心の底にただならぬ動揺を感じだした。それはいうべからざる不安な気分であった。心が中心点を失うて右往左往するようであった。意識の座が定まらない。魂が鎌首を擡
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