その翌夜も翌々夜も、僕達二人は同じ鴉片窟で逢った。
宋思芳はだんだん鴉片を煉るに慣れ、追々鴉片の醍醐の味に、沈湎《ちんめん》するように思われた。
僕はしばしば宋思芳に向かって、どういう素性の人間なのか、どこにどんな家に住んでいるのか、家族にどういう人達があるかと、そんなことを訊いて見たが、彼はいつもうまく逃げて、話をしようとはしなかった。
ところが次第に変な調子になった。
と言うのは宋思芳が僕に対して、思慕の情愛を示し出したのさ。
女が男を恋するような情を。
僕は同性恋愛者ではない。が、宋思芳が前に云った通りの、世にも珍しい美少年だったので、そういう彼のそういう情愛が、僕には不自然に感ぜられなかった。
4
さて、それから一月ほど経った。にわかに宋思芳少年が、鴉片窟へ姿を見せなくなった。すると僕は恋しい女と、不意に別れたそれのような、寂寥と悲哀と嫉妬さえも、強く心に燃えるようになった。
(いつか俺もあの女を――女のようなあの美少年を、恋していたものと思われる。)
そう僕はつくづく感じた。
そういう心を慰めるため、僕は旅へ出ることにした。
(揚子江でも溯ってみよう!)
で僕は出発した。もう楊花は散り尽くしてしまい、梨の花が河の岸あたりに、少し黄味を帯びた白い色に、――それも日本の梨の花のような、あんな淡薄な色でなく、あんな薄手の姿でなく、モクモクと盛り上り団々と群れて、咲いているのを散見しながら、岸に添って僕達の船は上った。戎克《ジャンク》、筏、帆をかけた筏――その筏の上で豚を飼い、野菜を作り、子供を産むと、そう云われている筏船などが、僕達の船の傍《そば》を通った。
今にも鎮江が陥落しそうだとか、北京の清帝が蒙塵するらしいとか、戦争の噂は船中にあっても聞こえ、その噂はいつも支那側にとって、面白くないものだった。
船は江陰《チャンイン》で碇泊した。で、僕は上陸した。江陰にも英国兵が駐屯していて、戦争気分が漲っていたが、昔から風光明媚として、謡われるところだけに、家の構造《つくり》、庭園の布置に、僕を喜ばせるものがあり、終日町や郊外を、飽かず僕は見て廻った。夕方まで見て廻った。船は三日程碇泊するので、今夜は陸の旅館へ泊まろう、こう僕は最初からきめていた。
で、気持のよい旅館を探そう、こう思って町の方へ足を向けた。その時洋犬と支那美人とを連れた、中年の英国の将校が、僕を背後から追い越した。
「あ」と僕は思わず声を立てた。
と云うのは支那美人が宋思芳と、非常に顔が似ていたからであった。
すると支那美人も僕の顔を見たが、思い做《な》しか表情を変え、驚きと懐しさを現わしたようであった。
しかしその儘歩み去ってしまった。
友よ、こんな際、その支那美人の後を、僕がどこまでもつけて[#「つけて」に傍点]行ったところで、不都合だとは云わないだろうね。
僕はその後をつけて[#「つけて」に傍点]行ったのだよ。
と、その一行は町の入口の、かなり立派な屋敷へ入った。
屋敷の門際に英国の兵士が、銃を担いで立っていたので、僕はその一人に訊いてみた。
「今行った将校は誰人《どなた》ですか?」と。
「参謀長グレー閣下」
「ご一緒のご婦人は奥様ですか?」
「奥様ではない、愛人だよ」
英国兵などは気散じなもので、微笑しながらそう教えてくれた。
僕はその夜町の中央の、××亭という旅館へ泊まったが、どうにも眠ることが出来なかった。
そこで町を彷徨《さまよ》った。
もう明け方に近い頃で、月が町の家並の彼方、平野の涯へ落ちかかっていた。
と、不意に道の角を廻り、この辺りに珍しい二頭立の、立派な馬車が現われたが、その上に海軍の将校服をつけた、半白の髪をした英国人と、支那少年とが同乗していた。
僕は以前上海の地で、英国の水師提督エリオットを、一二度見かけたことがあって、容貌風采を知っていたので、馬車中の老将校がエリオットであることを、僕は早くも見て取ることが出来た。
娼公、俳優とでも云いたいような、艶かしい装いをした支那少年は? エリオットと同乗していた支那少年は? 友よそれこそ宋思芳だったのだ!
その証拠にはその少年は、僕を見かけると微笑して、軽く一揖《いちゆう》したのだからね。
では先刻の支那美人は! グレーと同伴していた支那美人は?
解《わか》らない! 解らない! 解らない!
僕は上海へ帰って来た。
鎮江は容易に陥落しなかった。
いろいろの噂が伝わった。鎮江は揚子江の咽喉で、地勢は雄勝で且つ奇絶、頗《すこぶ》る天険に富んでいる。そこへ清軍の精鋭が集まり、死守しているのでさすがの英軍も、陥落させることが出来ないのだと、そういう人間があるかと思うと、水師提督のエリオットが健康を害し、かつ頭を悪くして、昔日の俤がなくなったので、それが士気に影響して、鎮江が陥落しないのだと、そんなように云う人間もあった。しかし参謀長のグレーの方は、益々壮健で頭脳も明晰だから、早晩彼の策戦で、鎮江は陥落するだろうと、そんなように云う人間もあった。
さて僕だが上海へ帰るや、例によって例の如く、鴉片窟や私娼窟へ入り浸って、その日その日をくらしたものさ。
そこで君は不思議に思うだろうね、僕という人間が生活基礎を、どういうものに置いていて、そんな耽溺的生活に、毎日耽ることが出来るのかと?
5
それについてはいずれ語ろう。
そう、いずれ語るとしよう。が、今はそんなことより、その後僕が遭遇した、世にも奇怪な出来事について、消息する方がいいようだ。
友よ、それから一カ月経った。
その時僕の家の玄関に、厠で使う紙の面に、
「明後日迎いに参る可《べ》く候」
こういう意味の文字が書かれてあり、心臓に征矢《そや》を突き刺した絵が、赤い色で描かれたものが、針によって止められていた。
これには説明がいるようだから、一つ説明することにする。
上海には上流の女ばかりによって、形成されている秘密倶楽部がある。
「加華荘舎《かかそうしゃ》」と云われている。
その目的とするところは、性の享楽ということなのだ。
で、これと[#「これと」に傍点]目星をつけた、美男の住んでいる家の玄関へ、今云ったような張り紙をし、それから轎《かご》で迎いに来るのだ。
男は絶対に拒絶することが出来ない。もし拒絶しようものなら、その男一人ばかりでなく、その男の一家一族までが、ひどい惨害に遭うのだからね。
この国における女の勢力! それは到底日本の比でなく、全く恐ろしい程なのだ。今日ばかりではなく事実この国の――支那の、ずっと昔からの、習慣であるということが出来る。則天武后だの呂后《ろごう》だの、褒似《ほうじ》だの妲妃《だっき》だのというような、女傑や妖姫《ようき》の歴史を見れば、すぐ頷かれることだからね。
しかしそれにしても僕のようなものへ、白羽の矢を立てて召そうとは、尠《すくな》くも僕にとっては以外だったよ。
と云って何も僕という人間が、醜男だったからと云うのではない。自画自賛で恐縮だが、僕という人間は君も知っている通り、かなりの好男子であるはずだからね。
僕の云うのはそう云う意味からではなく「僕のような生活を生活[#「僕のような生活を生活」に傍点]している者に、そんな招待をするなんて、何て冒険的な女達だろう」――つまりこういう意味なのだ。
僕のような生活を生活している者? のような生活[#「のような生活」に傍点]とはどんな生活なのか? おそらく君は知りたいだろうね。よろしい云おう、その中《うち》に云おう。
とにかくこうして当日となり、その日が暮れて夜となり、その夜が更けて深夜となった。桂華徳街の百○参号、そこが僕の家なのだが、果たしてその処へ一挺の轎《かご》が、数人の者によって担い込まれた。
僕は新しい衫《さん》を着け、そうして新しい袴《こ》を穿いて、懐中に短刀――鎧通《よろいどおし》[#ルビの「よろいどおし」は底本では「ろよいどおし」]さ、兼定《かねさだ》鍛えの業物だ、そいつを呑んで轎に乗った。
(淫婦どもめ、思い知るがいい!)
こういう心持を持ちながら、轎に乗ったというものさ。
さて轎は道を走った。その道筋を細描写しても、君には面白くあるまいと思う。で、一切はぶくことにする。
轎は目的の館へ着いた。
そこが「加華荘舎」の在場所なのさ。僕は一室に通された。
ここで僕はこの館の構造《つくり》を、ほんの簡単にお知らせしよう。
階段があると思ってくれたまえ。そうだ一筋の階段が。その階段を上り切った所に、一つの小広い部屋があり、その部屋から無数に細い廊下が、四方に通っているのだよ。そうしてその廊下の行き止まりに、一つずつ小さな婦人部屋があり、そこに会員達がいるのだそうだ。又、階段を下り切った所に、同じく小広い部屋があり、その部屋から今度は一筋の廊下が、一方の方へ通じて居り、その行き止まりに風呂場がある。そうしてその風呂場の一方の壁に、秘密の扉《ドア》が出来て居り、そこを出ると廊下となる。この廊下は充分長く、そうして風呂場と平行していて、そうして左右に部屋があるのだ。そうだ、いくつかの寝室が。会員の数だけの寝室が。
で、召されたミメヨキ男は、先ず風呂に入れられて、すっかり体を洗われて、一つの寝室へ寝かされるのだ。と、互いに籤引きをして、真先に当選した会員の女が、これも最初風呂へ入り、体を洗いお化粧をし、それから男の寝ている部屋へ、導かれて侵入する。
もうその後は書く必要はあるまい。
さて、すっかり陶酔してしまうと、又女は風呂へ入り、綺麗に汗と膏《あぶら》とを落とす。そうして自分の部屋へ引き上げて行く。と今度は男の方が、風呂へ入れられて洗われる。それから別の寝室へ送られ、二番目の女を迎えることになる。こういうことが繰り返され、二日でも三日でも五日でも十日でも、男の精力のつづく中は、女達の欲望の消えない中は、無限に繰り返されて行くのだよ。
友よ、そういう加華荘舎へ、僕は招待にあずかったのだ。そうして今云った手順を経て、一つの寝室へ通された。その寝室には寝台があり、寝台には鴉片の装置があり、酒を飲むようにもなっていた。ほのかな燈火《あかり》もともされていた。僕は寝台に横になり、
(来やがれ、淫婦ども?)と思っていた。
とうとう女はやって来た。
外から部屋の錠を外し、内へ入ると錠をかい、平然として近寄って来た。彼女等はすっかり慣れているのだ。男が女を弄ぶことに、すっかり慣れているように、彼女等は男を弄ぶことに、これまたすっかり慣れているのだ。
僕はかづいていた衾《ふすま》の中で、鎧通の柄を握り――殺そうなどとは夢にも思わず、傷付けようなどとも夢にも思わず、せいぜいのところひっこ抜いて、嚇《おど》してやろうと考えていた。と、衾が捲くられた。つまり女が捲くったのだ。で、僕は女の顔を見た。
「あ」と僕は思わず云った。
その女が彼女だったからだ。江陰の郊外でグレーと一緒に、散策していた支那美人――宋思芳と似ている支那美人だったからだ。
僕は鎧通を手から放した。
そうして寝台の一方を開けた。彼女が寄り添って寝られるように。
で彼女は僕の側《そば》へ寝た。
そうして二人は陶酔してしまった。
満足して彼女が立ち去る時、彼女は僕へ囁いた。
「他の女へ貴郎をお渡しするのは、私大変厭なんですけれど、少なくももう一人の女へだけは、貴郎をお貸ししなければならないのです」と。
僕はそれから風呂へ入れられ、別の寝室へ案内された。
扉をあけて中へ入った途端、しかし意外の光景を見た。まぎれもない宋思芳少年が、一人の外人に咽喉を抑えられ、寝台の上へ捻じ仆《たお》され、圧殺されようとしているのだ。
「タ、助けて!」と息も絶え絶えに、その宋思芳が僕へ云った。
で、僕はほとんど夢中で、その外人へ飛びかかり、持っていた鎧通で一えぐりした。外人――それはグレーだったが、もろくもそのまま死んでしまった。
友よ、グレーの血に染まった、醜悪な死骸を
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