塵《こじん》静ニ、西長安ニ入ッテ日延ニ到ル」
 凱旋の日を空想したりした。
 ところが河南の招討判官、李銑《りせん》というのが広陵に居た。永王の舟師を迎え[#「迎え」は底本では「迎へ」]討った。
 永王軍は脆く破れた。
 永王は箭《や》に中《あた》って捕えられ、ある寒駅で斬殺された。そうして弟の襄成王は、乱兵の兇刄に斃《たお》された。
 李白は逃げて豊沢に隠れたが、目つかって牢屋へぶち[#「ぶち」に傍点]込まれた。
「どうも不可《いけ》ねえ、夢だったよ」
 憮然として彼は呟いた。
「兵を指揮するということは、韻をふむ[#「ふむ」に傍点]よりむずかしい。そうすると俺より安石の方が、人殺しとしては偉いらしい。もう君王の玉馬鞭なんか、仮にも空想しないことにしよう……。ひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると殺されるかもしれねえ。何と云っても謀反人だからなあ、もう一度|洞庭《どうてい》へ行って見たいものだ。松江の鱸《すずき》を食ってみたい。女房や子供はどうしたかな? 幾人女房があったかしら? あっ、そうだ、四人あったはずだ」
 李白はちょっと感傷的になった。
 無理もないことだ、五十七歳であった。
 李白は皆に好かれていた。
 新皇帝|粛宗《しゅくそう》に向かって、いろいろの人が命乞いをした。
 宣慰大使《せんいたいし》崔渙《さいかん》や、御史中丞《ぎょしちゅうじょう》宋若思《そうじゃくし》や、武勲赫々たる郭子儀《かくしぎ》などは、その最たるものであった。
 そこで李白は死を許され、夜郎へ流されることになった。
 道々洞庭や三峡や、巫山《ふざん》などで悠遊した。
 李白はあくまでも李白であった。竄逐《さんつい》[#「竄逐《さんつい》」はママ]されても悲しまなかった。いや一層仙人じみて来た。人間社会の功業なるものが全然自分に向かないことを、今度の事件で知ってからは、人間社会その物をまで、無視するようになってしまった。
 乾元《かんげん》二年に大赦があった。
 まだ夜郎へ行き着かない中に、李白は罪を許された。
 そこで江夏岳陽に憩い、それから潯陽《じんよう》へ行き金陵へ行った。この頃李白は六十一歳であった。また宣城や歴陽へも行った。
 あっちこっち歩き廻った。
 到る所で借金をした。九割までは酒代であった。
 のべつ[#「のべつ」に傍点]に客が集まって来た。
 やがて宝応元年になった。
 ある県令に招かれて、釆石江で舟遊びをした。
 すばらしく派手やかな宮錦袍を着、明月に向かって酒気を吐いた。
 波がピチャピチャと船縁を叩いた。
 十一月の月が水に映った。
「ひとつ、あの月を捕えてやろう」
 人の止めるのを振り払い、李白は水の中へ下りて行った。
 水は随分冷たかった。
 彼の考えはにわかに変わった。
 どう変わったかは解らない。
 李白は水中をズンズン歩いた。
 やがて姿が見えなくなった。
 それっきり人の世へ現われなかった。
「李白らしい死に方だ」
 人々は愉快そうに手を拍った。

 東巖子《とうがんし》は岷山《みんざん》にいた。
 相変わらず小鳥の糞にまみれ[#「まみれ」に傍点]、相変らずぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と暮らしていた。
 ある日薄穢い老人が、東巖子を訪れて来た。
「先生しばらくでございます」
「誰だったかね、見忘れてしまった」
 老人は黙って優しく笑った。
 なるほどまさしく薄穢くはあったが、底に玲瓏たる品位があった。人間界のものであり、同時に神仙のものである、完成されたる品位であった。
 で、東巖子は思わず云った。
「おお貴郎《あなた》は老子様で?」
「いえ私は李白ですよ」
「いえ貴郎は老子様です」
 東巖子は云い張った。
「どうぞ上座へお直り下さい」
 李白は平気で上座へ直った。
 数百羽の小鳥が飛んで来た。音を立てて庵の中へ入った。
 そうして東巖子の頭や肩へ……いや小鳥は東巖子へは行かずに、李白の頭や肩へ止まった。すぐに李白は糞まみれになった。

 今でも岷山のどの辺りかに、李白とそうして東巖子とが、小鳥を相手に日向《ひなた》ぼっこ[#「ぼっこ」に傍点]をして、住んでいる事は確かである。



底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「大衆文芸」
   1926(大正15)年4月
※漢詩漢文の読み下し文の旧仮名づかいは底本通りです。また促音の大小の混在も底本の通りです。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月2日作成
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