った。
 李白は皆に好かれていた。
 新皇帝|粛宗《しゅくそう》に向かって、いろいろの人が命乞いをした。
 宣慰大使《せんいたいし》崔渙《さいかん》や、御史中丞《ぎょしちゅうじょう》宋若思《そうじゃくし》や、武勲赫々たる郭子儀《かくしぎ》などは、その最たるものであった。
 そこで李白は死を許され、夜郎へ流されることになった。
 道々洞庭や三峡や、巫山《ふざん》などで悠遊した。
 李白はあくまでも李白であった。竄逐《さんつい》[#「竄逐《さんつい》」はママ]されても悲しまなかった。いや一層仙人じみて来た。人間社会の功業なるものが全然自分に向かないことを、今度の事件で知ってからは、人間社会その物をまで、無視するようになってしまった。
 乾元《かんげん》二年に大赦があった。
 まだ夜郎へ行き着かない中に、李白は罪を許された。
 そこで江夏岳陽に憩い、それから潯陽《じんよう》へ行き金陵へ行った。この頃李白は六十一歳であった。また宣城や歴陽へも行った。
 あっちこっち歩き廻った。
 到る所で借金をした。九割までは酒代であった。
 のべつ[#「のべつ」に傍点]に客が集まって来た。
 やがて宝応元年
前へ 次へ
全24ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング