った。
李白は皆に好かれていた。
新皇帝|粛宗《しゅくそう》に向かって、いろいろの人が命乞いをした。
宣慰大使《せんいたいし》崔渙《さいかん》や、御史中丞《ぎょしちゅうじょう》宋若思《そうじゃくし》や、武勲赫々たる郭子儀《かくしぎ》などは、その最たるものであった。
そこで李白は死を許され、夜郎へ流されることになった。
道々洞庭や三峡や、巫山《ふざん》などで悠遊した。
李白はあくまでも李白であった。竄逐《さんつい》[#「竄逐《さんつい》」はママ]されても悲しまなかった。いや一層仙人じみて来た。人間社会の功業なるものが全然自分に向かないことを、今度の事件で知ってからは、人間社会その物をまで、無視するようになってしまった。
乾元《かんげん》二年に大赦があった。
まだ夜郎へ行き着かない中に、李白は罪を許された。
そこで江夏岳陽に憩い、それから潯陽《じんよう》へ行き金陵へ行った。この頃李白は六十一歳であった。また宣城や歴陽へも行った。
あっちこっち歩き廻った。
到る所で借金をした。九割までは酒代であった。
のべつ[#「のべつ」に傍点]に客が集まって来た。
やがて宝応元年
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