岷山の隠士
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)隴西《ろうせい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)素面|欄鉤《らんこう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日/高」、第3水準1−85−36]《こう》
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「いや彼は隴西《ろうせい》の産だ」
「いや彼は蜀《しょく》の産だ」
「とんでもないことで、巴西《はせい》の産だよ」
「冗談を云うな山東《さんとう》の産を」
「李広《りこう》[#「李広《りこう》」は底本では「季広《りこう》」]の後裔だということだね」
「涼武昭王※[#「日/高」、第3水準1−85−36]《りょうぶしょうおうこう》の末だよ」
――青蓮居士謫仙人《せいれんこじたくせんにん》、李太白の素性なるものは、はっきり解《わか》っていないらしい。
金持が死ぬと相続問題が起こり、偉人が死ぬと素性争いが起こる。
偉人や金持になることも、ちょっとどうも考えものらしい。
李白十歳の初秋であった。県令の下《もと》に小奴となった。
ある日牛を追って堂前を通った。
県令の夫人が欄干に倚《よ》り、四方《あたり》の景色を眺めていた。
穢らしい子供が、穢らしい牛を、臆面もなく追って行くのが、彼女の審美性を傷付けたらしい。
「無作法ではないか、外《よそ》をお廻り」
すると李白は声に応じて賦《ふ》した。
「素面|欄鉤《らんこう》ニ倚リ、嬌声|外頭《がいとう》ニ出ヅ、若シ是織女ニ非ズンバ、何ゾ必シモ牽牛ヲ問ハン」
これに驚いたのは夫人でなくて、その良人《おっと》の県令であった。
早速引き上げて小姓とした。そうして硯席に侍《はべ》らせた。
ある夜素晴らしい山火事があった。
「野火山ヲ焼クノ後、人帰レドモ火帰ラズ」
県令は苦心してここまで作った。後を附けることが出来なかった。
「おい、お前附けてみろ」
県令は李白へこう云った。
十歳の李白は声に応じて云った。
「焔ハ紅日《こうじつ》ニ隨ツテ遠ク、煙ハ暮雲ヲ逐《お》ツテ飛ブ」
県令は苦々しい顔をした。それは自分よりも旨いからであった。
五歳にして六甲を誦し、八歳にして詩書に通じ、百家を観たという寧馨児《ねいけいじ》であった。田舎役人の県知事
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