れも将しくその一例であった。
 金鑾《きんらん》殿という立派な御殿で、玄宗は李白を引見した。
 帝、食を賜い、羹《あつもの》を調し、詔あり翰林《かんりん》に供奉《ぐぶ》せしむ。――これがその時の光景であった。非常に優待されたことが、寸言の中に窺われるではないか。
 彼は翰林供奉となっても、出勤しようとはしなかった。長安の旗亭に酒を飲み、いう所の管ばかりを巻いていた。
「李白に会いたいと思ったら、長安中の旗亭を訪ね、一番酔っぱらっている人間に、話しかけるのが手取早い。間違いなくそれが李白なのだからな」
 人々は互いにこんなことを云った。
 その時唐の朝廷に一大事件が勃発した。
 渤海《ぼっかい》国の使者が来て、国書を奉呈したのであった。
 国書は渤海語で書かれてあった。満廷読むことが出来なかった。
 玄宗皇帝は怒ってしまった。
「蕃書を読むことが出来なければ、返事をすることが出来ないではないか。渤海の奴らに笑われるだろう。彼奴《きゃつ》ら兵を起こすかもしれない。国境を犯すに相違ない。誰か読め誰か読め!」
 百官戦慄して言なし矣《い》であった。
 そこへ遣《や》って来たのが李白であった。
 飄々|乎《こ》として遣って来た。
「おお李白か、いい所へ来た。……お前、渤海語が解《わか》るかな?」
「私、日本語でも解ります。まして謂んや渤海語など」
「それは有難い。これを読んでくれ」
 渤海の国書を突き出した。
 李白は一通り眼を通した。
「では唐音に訳しましょう」
 そこで彼は声高く読んだ。
「渤海|奇毒《きどく》の書、唐朝官家に達す。爾《なんじ》、高麗《こうらい》を占領せしより、吾国の近辺に迫り、兵|屡《しばしば》吾|界《さかい》を犯す。おもうに官家の意に出でむ。俺《われ》如今《じょこん》耐《た》うべからず。官を差し来り講じ、高麗一百七十六城を将《もっ》て、俺に讓与せよ。俺好物事あり、相送らむ。太白山の兎、南海の昆布、柵城の鼓、扶余《ふよ》の鹿、鄭頡《ていきつ》の豚、率賓《そつびん》の馬、沃州綿《ようしゅうめん》[#ルビの「ようしゅうめん」は底本では「ようしうめん」]、※[#「さんずい+眉」、第3水準1−86−89]泌河《びんひつが》の鮒、九都の杏、楽遊《がくゆう》の梨、爾、官家すべて分あり。若《も》し高麗を還《かえ》すことを肯んぜずば、俺、兵を起こし来たって厮殺せむ。且《
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