七歳ヨリ綴ル所ノ詩筆、四十|載《さい》、向フ矣《い》、約千有余篇」
 こんなことも書いてある。
 開元十九年二十歳の時、呉越方面へ放浪した。
 四年の間を放浪に暮らし、開元二十三年の頃、京兆の貢拳《こうきょ》に応じたものである。
 だが旨々《うまうま》落第してしまった。


 彼はすっかり落胆した。
 奉天の父の許へ帰って行った。泰山《たいざん》を望んで不平を洩らした。
 二年の間ブラブラした。
 それから斉《せい》や趙《ちょう》[#ルビの「ちょう」は底本では「しょう」]に遊んだ。
 それから長安へ遣って来たのであった。

 李白と杜甫との会見は、賀知章が心配したほどにもなく、非常に円滑に行なわれた。
 会後李白が賀知章へ云った。
「彼は頗《すこぶ》る人間臭い。それが又彼のよい所だ。詩人として当代第一」
 また杜甫はこう云った。
「なるほどあの人は謫仙人だ。僕はすっかり面喰ってしまった。詩人としては第一流、とても僕など追っ付けそうもない」
 互いに推重をしあったのであった。
 李適之《りてきし》、汝陽《じょよう》、崔宗之《さいそうし》、蘇晋《そしん》、張旭《ちょうぎょく》、賀知章《がちしょう》、焦遂《しょうすい》、それが杜甫と李白とを入れ、八人の団体が出来上ってしまった。
 飲んで飲んで飲み廻った。
 いわゆる飲中の八仙人であった。
 酒はあんまりやらなかったが、一世の詩宗高適などとも、李白や杜甫は親しくした。
 三人で吹台や琴台へ登り、各自《めいめい》感慨に耽ったりした。
 ※[#「りっしんべん+更」、662−15]慨するのは杜甫であり、物を云わないのは高適であり、笑ってばかりいるのは李白であった。
 高適の年五十歳、李白の年四十四歳、杜甫の年三十二歳であった。
 だがこの時代は李太白が、誰よりも詩名が高かった。
 玄宗皇帝が会いたいと云った。
 で、李白は御前へ召された。
 誰が李白を推薦したかは、今日に至っても疑問とされている。
 ある人は道士呉※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63][#「※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]」は底本では「※[#「くさかんむり/均」、662−下−1]」]だと云い、ある人は玉真公主だと云い、又ある人は賀知章だと云った。
 すべて人間が出世すると、俺が推薦した俺が推薦したと、推薦争いをするものであるが、こ
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