っ」に傍点]と気が付いた北斎は駕籠の戸を立てて飛び上がった。それから静かにこう云った。
「狩野法眼様ご病気でござる。駕籠ゆるゆるとおやりなされ」
変死とあっては後がむつかしい。病気の態《てい》にしたのである。
ちらほら[#「ちらほら」に傍点]と立つ人影を、先に立って追いながら、北斎は悠々と歩いて行く。
この時ばかりは彼の姿もみすぼらしい[#「みすぼらしい」に傍点]ものには見えなかった。
その夜とうとう融川は死んだ。
この報知《しらせ》を耳にした時、豊後守の驚愕は他《よそ》の見る眼も気の毒なほどで、怏々《おうおう》として楽しまず自然|勤務《つとめ》も怠《おこた》りがちとなった。
これに反して北斎は一時に精神《こころ》が緊張《ひきし》まった。
「やはり師匠は偉かった。威武にも屈せず権力にも恐れず、堂々と所信を披瀝したあげく、身を殺して顧《かえりみ》なかったのは大丈夫でなければ出来ない所業《しわざ》だ。……これに比べては貧乏などは物の数にも入りはしない。荻生徂徠《おぎゅうそらい》は炒豆《いりまめ》を齧って古人を談じたというではないか。豆腐の殻を食ったところで活きようと思えば活き
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