「ワッハッハッハッこりゃ面白い! 他人《ひと》に刎ねられるまでもない。自身《みずから》出品しないまでよ。……何を苦しんで何を描こうぞ。盲目《めくら》千人の世の中に自身《みずから》出品しないまでよ!」
融川はつと[#「つと」に傍点]立ち上がったが見据えた眼で座中を睨む……と、スルスルと部屋を出た。
一座寂然と声もない。
ひそかに唾を呑むばかりである。
その時日頃融川と親しい、林大学頭が膝行《にじ》り出たが、
「豊後守様まで申し上げまする」
「…………」
「狩野融川儀この数日来頭痛の気味にござりました」
「ほほうなるほど。……おおそうであったか」
「本日の無礼も恐らくそのため。……なにとぞお許しくだされますよう」
「病気とあれば是非もないのう」
――ちと云い過ぎたと思っていたやさきとりなす者が出て来たので早速豊後守は委せたのであった。――
しかしそれは遅かった。悲劇はその間に起こったのである。
二
ちょうど同じ日のことであった。
葛飾北斎は江戸の町を柱暦《はしらごよみ》を売り歩いていた。
北斎といえば一世の画家、その雄勁の線描写とその奇抜な取材とは、古今東西に比を見ずといわれ、ピカソ辺《あた》りの表現派絵画と脈絡通ずるとまで持て囃《はや》されているが、それは大正の今日のことで、北斎その人の活きていた時代――わけても彼の壮年時代は、ひどく悲惨《みじめ》なものであった。第一が無名。第二が貧乏。第三が無愛想で人に憎まれた。彼の履歴を見ただけでも彼の不遇振りを知ることが出来よう。
「幕府|用達《ようたし》鏡師《かがみし》の子。中島または木村を姓とし初め時太郎|後《のち》鉄蔵と改め、春朗、群馬亭、菱川宗理、錦袋舎等の号あれども葛飾北斎最も現わる。彫刻を修めてついに成らず、ついで狩野融川につき狩野派を学びて奇才を愛せられまさに大いに用いられんとしたれど、不遜をもって破門せらる。これより勝川春章に従い設色をもって賞せられたれども師に対して礼を欠き、春章怒って放逐す。以後全く師を取らず俵屋宗理の流風を慕いかたわら光琳の骨法を尋《たず》ね、さらに雪舟、土佐に遡《さかのぼ》り、明人《みんじん》の画法を極むるに至れり」
云々というのが大体であるが、勝川春章に追われてから真のご難場《なんば》が来たのであった。要するに師匠と離れると共に米櫃《こめびつ》の方
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