くがいい、早く行け……」
「はい、はい、有難う存じます」
男女は泥濘へ額をつけた。刀の鞘走る音がした。蒼白い光が一閃した。
「むっ」という男の息詰った悲鳴、続いて重い鈍い物が、泥濘へ落ちる音がした。男の首が落ちたのであった。
「ひ――ッ」と女の悲声がした。もうその時は斬られていた。男女の死骸は打ち重なり、その手は宙で泳いでいた。と、女の左手と男の右手とが搦み合った。月が上から照らしていた。血が泥濘へ銀色に流れ、それがピカピカ目に光った。
茫然と侍は佇んだ。二つの死骸を見下ろした。女の衣装で刀を拭い、ゆるくサラサラと鞘へ納めた。
「可《い》い気持だ」と呟いた。
「お杉様!」と咽ぶように云った。
それから後へ引っ返した。
6
江戸へ「夫婦《めおと》斬り」の始まったのは、実にその夜が最初であった。あえて夫婦とは限らない。男女二人で連れ立って、夜更けた町を通って行くと、深編笠の侍が出て、斬って捨るということであった。江戸の人心は恟々とした。夜間《よる》の通行が途絶え勝ちになった。
さて一方お杉の身の上には、来べきことが来ることになった。将軍|家斉《いえなり》の眼に止まり、局《つ
前へ
次へ
全30ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング