がある。うかうか道場などへ参って見ろ、なぶられたあげく撲《なぐ》られるぞ」「へえ、そいつはおっかないね」「おっかないとも、だから帰れ」「撲られるのは大嫌いだ」「好きな奴があるものか」「だからおいら撲られねえだ。おいらの方から撲ってやるだ」「呆れた奴だ。物もいえぬ」「だから取り次いでおくんなせえまし」「取り次ぐことは罷《まか》りならぬよ」「ではどうしても出来ねえだか」「さようどうしても出来ないな」「ではしかたがねえ、帰るべえ」「その方がいい。安全だ」「その代り世間へいい触らすがいいか」「ナニいい触らす? 何をいい触らすのだ?」「千葉周作だ、北辰一刀流だと、大きな看板は上げているが、その実とんだ贋物《いかさまもの》で、甲州の千代千兵衛に試合を望まれたら、おっかながって逢わなかったと、こういい触らしても文句あるめえな」
大胆なのか白痴《ばか》なのか?
これを聞くと取り次ぎの武士は、にわかにその眼を怒らせたが、「いやはやなんと申してよいか、田舎者と思えばこそ、事を分けて訓《さと》してやったに、それが解らぬとは気の毒なもの。よしよしそれほど撲られたいなら、望みにまかせ取り次いでやろう。逃げるなよ、待っておれ」
こういい捨てて奥へはいったが、やがて笑いながらひっ返して来た。
「大先生はご来客で、そち[#「そち」に傍点]などにはお目にかかれぬ。しかし道場にはご舎弟《しゃてい》様はじめ、お歴々の方が控えておられる。望みとあらば通るがよい」「へえ、有難う存じますだ」
で、田舎者は上がり込んだ。長い廊下を行き尽くすと、別構えの道場であった。カチ、カチ、カチ、というしないの音、鋭い掛け声も聞こえて来た。
「さあはいれ」といいながら、取り次ぎの武士がまずはいると、その後に続いて田舎者は、構えの内へはいっていった。見かすむばかりの大道場、檜《ひのき》づくりの真新しさ、最近に建てかえたものらしい。向かって正面が審判席で、その左側の板壁一面に、撃剣道具がかけつらねてあり、それと向かい合った右側には、門弟衆の記名札が、ズラとばかり並んでいた。審判席にすわっているのは、四十年輩の立派な人物、外ならぬ千葉定吉で、周作に取っては実の弟、文武兼備という点では周作以上といわれた人、この人物であったればこそ、北辰一刀流は繁昌し、千葉道場は栄えたのであった。性来無慾|恬淡《てんたん》であったが、その代りちょっと悪戯《いたずら》好きであった。で、田舎者の姿を見るとニヤリと笑ったものである。その左側に控えていたのは、周作の嫡子|岐蘇太郎《きそたろう》、また右側に坐っていたのは、同じく次男栄次郎であって、文にかけては岐蘇太郎、武においては栄次郎といわれ、いずれも高名の人物であった。岐蘇太郎の横には平手造酒が坐し、それと並んで坐っているのは、他ならぬ観世銀之丞であった。打ち合っていた門弟達は、田舎者の姿へ眼をつけると、にわかにクスクス笑い出したが、やがてガラガラと竹刀《しない》を引くと、溜《たま》りへ行って道具を脱ぎ、左右の破目板を背後《うしろ》に負い、ズラリと二列に居流れた。
「他流試合希望の者、召し連れましてござります」
取り次ぎの武士は披露した。
すると定吉は莞爾《にっこり》としたが「千代千兵衛とやら申したな」
「へえ、千代千兵衛と申しますだ。どうぞハアこれからはお心易く、願《ねげ》えてえものでごぜえます」田舎者はこういうと、一向平気で頭を下げた。胆《きも》が太いのか白痴《ばか》なのか、にわかに判断がつき兼ねた。
「で、流名はないそうだな?」
「へえ、そんなものごぜえません」
「当道場の掟として門弟二、三人差し出すによって、まずそれと立ち合って見い」
「へえ、よろしゅうごぜえます。どうぞ精々《せいぜい》強そうなところをお出しなすってくだせえまし」
「秋田|氏《うじ》、お出なさい」
「はっ」というと秋田藤作、不承不承に立ち出でた。相手は阿呆の田舎者である、勝ったところで名誉にならず、負けたらそれこそ面汚《つらよご》しだ。一向|栄《はえ》ない試合だと思うと、ムシャクシャせざるを得なかった。そのうっぷんは必然的に、田舎者の上へ洩らされた。「こん畜生め覚えていろ、厭というほどぶん撲ってやるから」で手早く道具を着けると、しない[#「しない」に傍点]を持って前へ出た。これに反して田舎者は、さも大儀だというように、ノロノロ道具を着けだしたが、恐ろしく長目のしない[#「しない」に傍点]を握ると、ノッソリとばかり前へ出た。双方向かい合ってしないを合わせた。
礼儀だから仕方がない、「お手柔らかに」と藤作はいった。
「へえ、よろしゅうごぜえます」これが田舎者の挨拶であった。まるで頼まれでもしたようであった。
「よろしゅうござるとは呆れたな。悪くふざけた田舎者じゃねえか。よし脳天をどやしつけ、きな臭い匂いでも嗅がせてやろう」藤作は益※[#二の字点、1−2−22]気を悪くしたが、「ヤッ」というと立ち上がり、一足引くと青眼につけた。と相手の田舎者は、同時にヌッと立ち上がりはしたが、うん[#「うん」に傍点]ともすん[#「すん」に傍点]ともいわばこそ、背後《うしろ》へ一足引くでもなく、ぼやっとして立っていた。位取りばかりは上段であった。
合点のいかない剣脈である
「へ、生意気《なまいき》な、上段と来たな。今に見ていろひっくり返してやるから」じっと様子を窺った。相手の全身は隙だらけであった。「ざまア見やがれ田舎者め。構えも屁ったくれもありゃしない。全身隙とはこれどうだ。といってこれが機に応じて、ヒラリ構えが変るというような、そんなしゃれた玉ではなし、フフン、こいつ狂人《きちがい》かな。他流試合とは恐れ入る。かまうものかひっ叩いてやれ」
ツト一足進んだ時、どうしたものか田舎者は、ダラリとしない[#「しない」に傍点]を下げてしまった。
「もしもしお尋ね致しますだ」こんな事をいい出した。「ちょっくらお尋ね致しますだよ」
「なんだ?」といったが秋田藤作すっかり気勢を削がれてしまった。試合の最中しないを下ろし、ちょっくら待てという型はない。無作法にも事を欠く、うんざりせざるを得なかった。
「何か用か、早くいえ」
「あのお前様《めえさま》の位所《くらいどころ》は、どこらあたりでごぜえますな?」
「剣道における位置の事か?」「へえ、さようでごぜえます」「拙者はな、切り紙だ」「切り紙というとビリッ尻《けつ》だね」「無礼なことをいうものではない」「さあそれじゃやりやしょう」
そこで二人はまた構えた。千葉道場の切り紙は、他の道場での目録に当たった。もう立派な腕前であった。その藤作が怒りをなし、劇《はげ》しく竹刀《しない》を使い出したので、随分荒い試合となった。「ヤ、ヤ、ヤ、ヤ……ヤ、ヤ、ヤ、ヤ」こう気合を畳み込んで、藤作は前へ押し出して行ったが、相手の田舎者は微動さえしない。同じ場所に立っていた。一歩も進まず一歩も退かない。盤石のような姿勢であった。そうして全身隙だらけであった。しかも上段に振り冠っていた。
見当のつかない試合ぶりであった。
「胴!」とばかり藤作は、風を切って打ち込んだ。ポーンといういい音がした。
「擦《かす》った!」と田舎者は嘲笑った。審判席からも声が掛からない。で藤作はツト退いた。じっと双方睨み合った。
「小手!」とばかり藤作は、再度相手の急所を取った。
「擦った」と田舎者はまたいった。嘲けるような声であった。審判席からは声が掛からない。
またも双方睨み合った。
「面!」と一|声《せい》藤作が、相手の懐中《ふところ》へ飛び込んだとたん、
「野郎!」という劇しい声がした。その瞬間に藤作は、床の上へ尻餅を突いた。プーンときな臭い匂いがして、眼の前をキラキラと火花が飛び脳天の具合が少し変だ。「ははあ、おれは打たれたんだな」……そうだ! 十二分にどやされたのであった。
「勝負あった」と審判席から、はじめて定吉の声がした。
「参った」といったものの秋田藤作は、どうにも合点がいかなかった。いつ撲られたのかわからなかった。
審判席では定吉が、眉をしかめて考え込んだ。
「これは普通の田舎者ではない。十分腕のある奴らしい。道場破りに来たのかも知れない。それにしても不思議な剣脈だな。動かざること山の如しだ。それにただの一撃で、相手の死命を制するという、あの素晴らしい意気組は、尋常の者には出来ることではない。……迂濶《うかつ》な相手は出されない。……観世氏、お出なさい」
「はっ」というと観世銀之丞は物臭さそうに立ち上がった。
観世銀之丞引き退く
観世銀之丞は能役者であった。それが剣道を学ぶとは、ちょっと不自然に思われるが、そこは変り者の彼のことで、一門の反対を押し切って、千葉道場へは五年前から、門弟としてかよっていた。天才にありがちの熱情は、剣道においても英発《えいはつ》し、今日ではすでに上目録であった。千葉道場での上目録は、他の道場での免許に当たり、どうして堂々たるものであった。もっとも近来憂鬱になり、物事が退屈になってからは、剣道の方も冷淡となり、道場へ来る日も稀《まれ》となったが、今日は珍らしく顔を見せていた。
道具を着けるとしない[#「しない」に傍点]を取り、静かに前へ進み出た。で田舎者もうずくまり、しない[#「しない」に傍点]としない[#「しない」に傍点]とを突き合わせた。と田舎者はまたいい出した。
「へえ、ちょっくらおきき致しますだ」「ああ何んでもきくがいい」「お前様の位所《くらいどころ》はえ?」「おれはこれでも上目録だよ」「へえさようでごぜえますかな。千葉道場での上目録は、大したものだと聞いているだ。さっきの野郎とは少し違うな」「これこれ何んだ。口の悪い奴だ」「それじゃおいらもちっとばかり、本気にならずばなるめえよ」「一ついいところを見せてくれ」
「やっ」と銀之丞は立ち上がった。ヌッと田舎者も立ち上がり、例によって例の如く、しない[#「しない」に傍点]を上段に振り冠ったが、姿勢が何んとなく変であった。「おや」と思って銀之丞は、相手の構えを吟味した。突然彼は、「あっ」といった。それと同時に審判席から、同じく、「あっ」という声がした。声の主は平手造酒だ。二人の驚いたのはもっともであった。千代千兵衛となのる田舎者は、足を前後へ構えずに、左右へウンと踏ん張っていた。銀之丞は考えた。
「ははあ、さてはあいつ[#「あいつ」に傍点]であったか。北国街道の芒原で、甚三殺しの富士甚内を、不思議な構えでおどしつけた、博徒姿の旅人があったが、ははあさてはこいつ[#「こいつ」に傍点]であったか。それにしてもいったい何者であろう?」……で、じっと様子を見た。相変らず全身隙だらけであった。胴も取れれば小手も取れた。決して習った剣道ではなかった。それにもかかわらず彼の体からは、不思議な力がほとばしり、こっちの心へ逼って来た。面《おもて》も向けられない殺気ともいえれば、戦闘的の生命力ともいえた。とまれ恐ろしい力であった。
「業《わざ》からいったら問題にもならぬ。おれの方がずっと上だ。しかし打ち合ったらおれが負けよう。ところで平手とはどうだろう? いや平手でも覚束ない、この勝負はおれの負けだ。負ける試合ならやらない方がいい」こう考えて来た銀之丞は、一足足を後へ引いた。そうして「参った」と声をかけた。道具を解くとわるびれもせず、元の席へ引き上げて行った。
「どうした?」と造酒はそれと見ると、気づかわしそうにささやいた。「お前の手にも合わないのか?」
すると銀之丞は頷《うな》ずいたが、「恐ろしい意気だ。途方もない気合いだ」「追分で逢った博徒のようだが」「うん、そうだ、あいつだよ」「待ったなし流とかいったようだな」「うん、そうそう、そんなことをいったな」「ポンポンガラガラ打ち合わずに、最初の一撃でやっつける、つまりこういう意味らしいな」「うん、どうやらそうらしい」「足を左右に踏ん張ったでは、進みもひきもならないからな。居所攻《いどころぜ》めという奴だな」「そうだ、そいつだ、
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