居所攻めだ。胴を取られても小手を打たれても、擦《かす》った擦ったといって置いて、敵が急《あせ》って飛び込んで来るところを、真っ向から拝み打ち、ただ一撃でやっつけるのだ」「観世、おれとはどうだろう?」「平手、お前となら面白かろう。しかし、あるいは覚束ないかもしれない」
 いわれて造酒は厭な顔をしたが、田舎者の方をジロリと見た。と田舎者は相も変らず、ノッソリとした様子をして、道場の真ん中に立っていた。たいして疲労《つか》れてもいないらしい。審判席では定吉先生が、さも驚いたというように、長い頤髯《ひげ》を扱《しご》いていた。眉の間に皺が寄っていた。神経的の皺であった。
「秋田藤作は駄目としても、観世銀之丞は上目録だ、それが一合も交わさずに、引き退くとは驚いたな。非常な腕前といわなければならない。しかしどうも不思議だな、そんな腕前とは思われない」

    平手造酒と田舎者

 定吉は思案に余ってしまった。「これはおれの眼が曇ったのかもしれない。どうにも太刀筋が解らない。とまれこやつは道場破りだな。このままでは帰されない。もうこうなれば仕方がない。平手造酒を出すばかりだ」
 で彼は厳然といった。「平手氏、お出なさい」
 平手造酒は一礼した。それから悠然と立ち上がった。
 千葉門下三千人、第一番の使い手といえば、この平手造酒であった。師匠周作と立ち合っても、三本のうち一本は取った。次男栄次郎も名人であったが、造酒と立ち合うと互角であった。しかしこれは造酒の方で、多少手加減をするからで、造酒の方が技倆《うで》は上であった。定吉に至ると剣道学者で、故実歴史には通じていたが、剣技はずっと落ちていた。
 由来造酒は尾張国、清洲在の郷士《ごうし》の伜《せがれ》で、放蕩無頼且つ酒豪、手に余ったところから、父が心配して江戸へ出し、伯父の屋敷へ預けたほどであった。しかしそういう時代から、剣技にかけては優秀を極め、ほとんど上手《じょうず》の域にあった。それを見込んだのが周作で、懇々身上を戒めた上己が塾へ入れることにした。爾来|研磨《けんま》幾星霜《いくせいそう》、千葉道場の四天王たる、庄司《しょうじ》弁吉、海保《かいほ》半平、井上八郎、塚田幸平、これらの儕輩《せいはい》にぬきんでて、実に今では一人武者であった。すなわち上泉伊勢守《こうずみいせのかみ》における、塚原小太郎という位置であった。もしこの造酒が打ち込まれたなら、もう外には出る者がない。厭でも周作が出なければならない。
 それほどの造酒が定吉の指図《さしず》で、不思議な田舎者と立ち合おうため、己が席から立ったのであった。場内しいんと静まり返り、しわぶき一つする者のないのは、正に当然な事であろう。そのおかし気《げ》な田舎者の態度に、ともすれば笑った門弟達も、今は悉くかたずを呑み、不安の瞳を輝かせていた。
 その息苦しい気分の中で、造酒は悠然と道具を着けた。彼の心には今や一つの、成算が湧いていたのであった。「恐ろしいのは一撃だ。そうだはじめの一撃だ。これさえ避ければこっちのものだ」彼は窃《ひそ》かにこう思った。「あせってはいけないあせってはいけない。こっちはあくまで冷静に、水のように澄み返ってやろう。そうして相手をあせらせてやろう。一ときでも二ときでも、ないしは一日でも待ってやろう。つまり二人の根比《こんくら》べだ。根が尽きて気があせり、構えが崩れた一|刹那《せつな》を、一気に勝ちを制してやろう。相手の不思議なあの構えを、突き崩すのが急務である」
 やがて道具を着けおわると、別誂えの太く長く、持ち重《おも》りのするしない[#「しない」に傍点]を握り、静かに道場の真ん中へ出た。両膝を曲げ肘を張り、ズイとしない[#「しない」に傍点]を床上へ置いた。それと見ると田舎者も、肘を張り両膝を曲げ、しない[#「しない」に傍点]の先を食っつけたが、「ちょっくらおたずね致しますだ」例のやつをやり出した。「平手様とおっしゃったようだが、そうすると平手造酒様だかね?」
「さよう、拙者は平手造酒だ」
「へえ、さようでごぜえますか。では皆伝でごぜえますな」「さよう、拙者は皆伝だ」「お前様さえ打ち込んだら、こっちのものでごぜえますな。ほかに出る人はねえわけだね。ヤレ有難い、とうとう漕ぎつけた。それじゃおいらも一生懸命、精一杯のところを出しますべえ」
 二人はしばらくおしだまった。ややあって同時に立ち上がった。造酒はピタリと中段につけ、しない[#「しない」に傍点]の端から真っ直ぐに、相手の両眼を睨みつけた。例によって田舎者は、二本の足を左右へ踏ん張り、しない[#「しない」に傍点]を上段に振り冠ったが、これまた柄頭《つかがしら》から相手の眼を、凝然《ぎょうぜん》と見詰めたものである。

    突き出された一本の鉄扇

 木彫りの像でも立てたように、二人はじっと静まっていた。双方無駄な掛け声さえしない。しない[#「しない」に傍点]の先さえ動かない。息使いさえ聞こえない。
 根気比べだと決心して、さて立ち上がった平手造酒は、水ももらさぬ構えをつけ、相手の様子を窺ったが、さっき銀之丞が感じたようなものを、やはり感ぜざるを得なかった。かつてこれまで経験したことのない、殺気といおうか圧力といおうか、ゾッとするような凄い力が、相手の体全体から、脈々として逼って来た。……「不思議だな」と彼は思った。「何んだろういったいこの力は? いったい何から来るのだろう?」……どうもはっきりわからない。わからないだけに気味が悪い。で、なお造酒は考えた。
「あいつはまるであけっぱなしだ。全身まるで隙だらけだ。それでいてやっぱり打ち込めない。不可解な力が邪魔をするからだ。それに反してこのおれは、あらゆる神経を働かせ、あらゆる万全の策を取り、全力的に構えている。おれの方が歩が悪い。おれの方が早く疲労《つかれ》る。おれの方が根負けする」
 こう思って来て平手造酒は、動揺せざるを得なかった。「あぶない!」と彼はその突嗟《とっさ》、自分の心を緊張《ひきし》めた。「考えてはいけない考えてはいけない。無念無想、一念透徹、やっつけるより仕方がない」
 で彼は自分の構えを、一層益※[#二の字点、1−2−22]かたくした。場内|寂然《せきぜん》と声もない。
 窓からさし込む陽の光さえ、思いなしか暗く見えた。
 こうして時が過ぎて行った。
 造酒にとってはその「時」が、非常に長く思われた。それが彼には苦痛であった。「打ち込んで行くか、打ち込まれるか、どうかしなければいたたまれない。とてもこのままでは持ち耐《こた》えられない……といって向こうからは打ち込んでは来まい。ではこっちから打ち込まなければならぬ」
 で造酒は構えたまま、ジリッと一足前へ出た。そうしてしばらく持ち耐えた。そうして相手の様子を見た。しかるに相手は動かない。凝然として同じ位置に、同じ姿勢で突ったっていた。これが常道の剣道なら、一方が進めば一方が退き、さらに盛り返し押し返すか、出合い頭を打って来るか、ないしはズルズルと押しに押され、つめに詰められて取りひしがれるか、この三つに帰着するのであるが、そこは変態の剣道であった。一足ジリリと詰め寄せられても、田舎者は微動さえしない。そこでやむを得ず造酒の方で、せっかく詰めたのを後戻りした。一歩後へひいたのであった。でまた二人は位取《くらいど》ったまま、木像のように動かない。しかしやはり造酒にとっては、この「動かない」ということが、どうにも苦しくてならなかった。で一足引いて見た。相手を誘《おび》き出すためであった。しかるに相手は動かない。左右に踏ん張った二本の足が、鉄で造られた雁股《かりまた》のように、巌然《がんぜん》と床から生え上がっていた。前へも進まず後へも退かず、真に徹底した居所攻《いどころぜ》めだ。で、やむを得ず造酒の方で、一端ひいたのを寄り戻した。同じ位置に復したのであった。「もうこれ以上は仕方がない。心気|疲労《つか》れて仆れるまで、ここにこうして立っていよう」造酒は捨鉢《すてばち》の決心をした。こうして二人は場の真ん中に、数百人の眼に見守られながら、静まり返って立っていた。
 と気味の悪い幻覚が、造酒の眼に見えて来た。相手が上段に構えている、しない[#「しない」に傍点]の先へポッツリと、真紅《しんく》のしみ[#「しみ」に傍点]が現われたが、それが見る間に流れ出し、しない[#「しない」に傍点]を伝い鍔《つば》を伝い、柄頭まで伝わった。と思うとタラタラと、床の上へ流れ落ちた。他でもない血潮であった。ハッと思って見直す、とそんなしみなどはどこにもない。「何んだ馬鹿な!」と思う間もなく、またもや同じしない[#「しない」に傍点]の先へ、ポッツリ真紅のしみが出来、それがタラタラと流れ下った。プンと生臭い匂いがした。とたんにグラグラと眼が廻った。同時に造酒は、「しまった!」と思った。「打たれる! 打たれる! いよいよ打たれる!」
 果然相手の千代千兵衛の眼が面越しに火のように輝いた。と同時に武者顫いがその全身を突き通った。
「今、打たれる! 今、打たれる!」造酒は我知らず眼を閉じた。しかし不思議にも相手のしない[#「しない」に傍点]が、体のどこへも落ちて来ない。彼はカッと眼を開けた。彼と敵とのその間に、一本の鉄扇が突き出されていた。太い指がガッシリと、鉄扇の柄《え》を握っていた。指に生えている細い毛が、幽かに幽かに顫えていた。造酒は鉄扇の持ち主を見た。

    忽ち崩れた金剛の構え

 中肉中|丈《ぜい》で色白く、眉目清秀で四十一、二、頬にも鼻下にも髯のない、一個|瀟洒《しょうしゃ》たる人物が、黒紋付きの羽織を着、白縞の袴を裾長に穿き、悠然とそこに立っていた。千葉周作成政であった。
「む」というと平手造酒は、構えを崩して後へ引いた。と、周作は造酒に代り、田舎者千代千兵衛へ立ち向かった。
 田舎者の上段は、なお崩れずに構えられた。それへ向けられた鉄扇は、一見いかにも弱々しく、そうして周作の表情には、鋭さを示す何物もなかった。
 静かであり冷ややかであった。しかるに忽然《こつぜん》その顔へ、何かキラリと閃めいた。その時初めて田舎者の金剛不動の構えが崩れ、両足でピョンと背後《うしろ》へ飛んだ。そうしてそこで持ち耐《こら》えようとした。しかしまたもや周作の顔へ、ある感情が閃めいた。とまた千代千兵衛は後へさがった。そうしてそこで持ち耐えようとした。しかし三度目の感情が、周作の顔へ閃めいた時、千代千兵衛の構えは全く崩れ、タ、タ、タ、タ、タ、タと崩砂《なだれ》のように、広い道場を破目板《はめいた》まで、後ろ向きに押されて行った。そうしてピッタリ破目板へ背中をくっつけてしまったのである。
 追い詰めて行った周作は、この時初めて「カッ」という、凄じい気合いを一つ掛けたが、それと同時に鉄扇を、グイとばかりに手もとへひいた。するとあたかも糸でひかれた、繰《あやつ》り人形がたおれるように、そのひかれた鉄扇に連れ、千代千兵衛のからだはパッタリと、前のめりにたおれたが、起き上がることが出来なかった。全く気絶したのであった。
 周作は穏《おだや》かに微笑したが、審判席へ歩み寄った。舎弟定吉が席を譲った。その席へ悠然と坐った時、道場一杯に充ちていた、不安と鬱気とが一時に、快然と解けるような思いがした。
「平手、平手」と周作は呼んだ。「今の勝負、お前の負けだ」
「私もさよう存じました」造酒は額の汗を拭き、「恐ろしい相手でございます」
「これはな、別に不思議はない。実戦から来た必勝の手だ」
「実戦から来た必勝の手? ははあさようでございますかな」
「というのは外でもない」周作はにこやかに笑ったが、「泰平の世の有難さ、わしの門弟は数多いが、剣《つるぎ》の稲妻、血汐の雨、こういう修羅場を経て来たものは、恐らく一人もあるまいと思う。いやそれはない筈だ。しかるにそこにいる千代千兵衛という男、その男だけは経て来ている。恐らくこやつは博徒であろう。それも名のある博徒であろう。彼らの言葉で出入《でい》りとい
前へ 次へ
全33ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング