を切られたんだもの、悪い役ったらありゃしない」
「あんまり来ようが遅いので、心配をして迎えに出たら、アッハハハ、あの活劇さ」
「助けにも来ず、薄情者! 思い出すと腹が立つよ」
「そっと仕舞《しま》って置くことさな。だが全くあの時は、見ていた俺さえ冷汗《ひやあせ》をかいた」
「今こそ笑って話すけれど、あの時|妾《わたし》は殺されるかと思った」
「だがな、あんな時俺が出たら、騒ぎは大きくなるばかりさ。そこでゆっくり拝見し駕籠が来たので付き添って、茶屋へ行ってからは思う存分、可愛がってやったからいいじゃねえか」
「だがね」と米八は探るように、「どうしてお前さんはあの鼓を、そうまで苦心して欲しがったのだろう?」
「なに、そんなことはどうでもいい」
 次郎吉はヒョイと横を向いた。
「妾ア気がかりでならないんだよ」
「ふふん」というと舌なめずりをした。
「そうかと思うと今年の夏中、フイと姿を消したりしてさ」
「旅へ行ったのさ、信州の方へな」
「その旅から帰ったかと思うと、例の鼓を持っているんだもの」
「ナーニ、そいつあ観世さんから、相談ずくで譲って貰ったのさ」
「そりゃあそうだろうとは思うけれど、それから間もなく起こったのが、鼓泥棒の鼓賊なんだもの……」
「ふん、それがどうしたんだい?」
 次郎吉はギロリと眼をむいた。
「だから気が気でないんだよ」
 その時チョンチョンと二丁が鳴った。
「おやもう幕が開くんだよ。それじゃ妾は行かなけりゃならない」
「では俺もおいとまとしよう」
 次郎吉はポンと立ち上がった。
「オイ、はねたら飲みに行こうぜ」
「ええ」
 というと部屋を出た。
 チェッと次郎吉は舌打ちをしたが、
「あぶねえものだ、火がつきそうだ」
 ちょっとあたりを見廻してから、部屋を出ると廊下へかかり、裏梯子《うらばしご》を下りると裏口から、雪のたまっている往来へ出た。
 プーッと風が吹いて来た。
「寒い寒い、ヤケに寒い」
 チンと一つ鼻をかみ、
「さあて、どっちへ行ったものかな」
 あてなしにブラブラ歩き出した。がその眼には油断がない。絶えず前後へ気をくばっていた。

    バッタリ遭ったは河内山

「おお和泉屋、和泉屋ではないか!」
 こう背後《うしろ》から呼ぶ者があるので、次郎吉はヒョイと振り返って見た。剃り立て頭に頭巾をかむり、無地の衣裳にお納戸色《なんどいろ》の十徳、色の白い鼻の高い、眼のギョロリとした凄味《すごみ》のある坊主、一見すると典医であるが、実は本丸のお数寄屋《すきや》坊主、河内山宗俊《こうちやまそうしゅん》が立っていた。
「おや、これは河内山の旦那で」
 こうはいったが和泉屋次郎吉、たいして嬉しそうな顔もしない。むしろ酸っぱい顔をした。
「どこへ行くな、え、和泉屋」
 黒塗りの足駄で薄雪を踏み、手は両方とも懐中手《ふところで》、大跨《おおまた》にノシノシ近寄って来たが、
「穴ッぱいりか、え、和泉屋、羨ましいな、奢《おご》れ奢れ」
「えッヘッヘッヘッ、どう致しまして。ちょっとそこまで野暮用で」
「冗談だろう、嘘をいえ。野暮用というなりではない。ここは浅草雷門、隅田を越すと両国盛り場。聞いたぞ聞いたぞその両国に、新しい穴を目つけたそうだな。羨ましいな一緒に行こう」
 始末につかない坊主であった。
「それはそうと、オイ和泉屋、近来ちっとも顔を出さないな」
「へえ、ちょっと、稼業の方が……」
「ナニ稼業? そんなものがあるのか」そらっ呆《とぼ》けてやり込めた。
「やりきれねえなあ、魚屋で」
「いや、それなら知ってるよ。だが、そいつあ表向き、お上を偽《あざむ》く手段じゃねえのか」
「とんでもないこと、どう致しまして」次郎吉はいやアな顔をした。
「ほんとに魚を売るのかえ」
「売る段じゃございません」
「塩引きの鮭でも売るのだろう」
「ピンピン生きてるたい[#「たい」に傍点]やこち[#「こち」に傍点]をね」
「おお、そうだったか、それは気の毒。アッハハハ、面白いなあ」
 益※[#二の字点、1−2−22]厭味に出ようとした。
「なにの、俺は、お前の稼業は、こいつだろうと思っていたのさ」壺を振るような手付きをし、
「ソーレどうだ、袁彦道《えんげんどう》!」
「そいつあ道楽でございますよ」
「ふふん、なるほど、道楽だったのか。それはそれはご結構なことじゃ。……それにしても思い切ったものだ。ちっとも賭場《とば》へ顔を出さないな」
「なあにそうでもございませんよ」気がなさそうに笑ったが、「やっぱりチョクチョク出かけているので」
「それにしては逢わないな」
「駆け違うのでございましょうよ」
「ちげえねえ、そうだろう。……だが細川へは行くまいな」こういうと宗俊はニヤリとした。これには意味があるのであった。
 はたして次郎吉は厭な顔をしたが、
「七里けっぱい[#「けっぱい」に傍点]でございますよ」
「ハッハッハッハッ、そうだろうて。……そこでいいことを聞かせてやる。気に入ったらテラを出せ」
「へえ、何んでございましょう?」
「玻璃窓の平八がいなくなったのさ」
「おっ、そりゃあほんとですかい?」思わず次郎吉は首を伸ばした。
「どうして旦那、ご存知で?」
「碩翁様からお聞きしたのさ」
「ははあなるほど、さようでございますか」
「どうだどうだ、いい耳だろう。十両でいい、十両貸せ」
「お安いご用でございますがね、……ようございます、では十両」
 紙に包んで差し出した。
「安いものさ、滅法《めっぽう》安い」チョロリと袖へ掻き込んだが、「オイ和泉屋、羽根が伸ばせるなあ」
 しかし次郎吉は返事をしない。
「お前にとっては苦手の玻璃窓、そいつが江戸から消えたとあっては、ふふん、全く書き入れ時だ。盆と正月が来たようなものだ。なあ和泉屋、そんなものじゃねえか」
 宗俊はネチネチみしみしとやった。

    鼓賊と鼠小僧は同一人

「旦那」と次郎吉は探るように、「いったいどこへいったんですい?」
「え、誰が? 玻璃窓か?」
「あの好かねえじじく玉で」
「どうやら大分気になるらしいな。聞かせてやろうか、え、和泉屋」
「ききてえものだ。聞かせておくんなせえ」
「が、只じゃあるめえな」
「十両あげたじゃありませんか」
「これか、こいつあさっきの分だ。一話十両といこうじゃねえか」
「厭なことだ、ご免|蒙《こうむ》りましょう」
「よかろう、それじゃ話さねえまでだ」
「旦那も随分あくどいねえ」とうとう次郎吉は憤然とした。「悪党のわりに垢抜けねえや」
「お互い様さ、不思議はねえ」
 宗俊はノコノコ歩き出した。
「旦那旦那待っておくんなさい」
 未練らしく呼び止めた。
「何か用か、え、和泉屋、止まるにも只じゃ止まらねえよ」
「出しますよ、ハイ十両」
「感心感心、思い切ったな」
「で、どこへ行ったんですい?」
「海へ行ったということだ」
「え、海へ? どこの海へ?」
「そいつはどうもいわれねえ」
「へえ、それじゃそれだけで、私《わっち》から二十両お取んなすったので?」
「悪いかな、え、和泉屋、悪いようなら、ソレ返すよ」
「ナーニ、それにゃ及ばねえ。それにしても阿漕《あこぎ》だなあ。……ようごす、旦那、もう十両だ、詳しく話しておくんなさい」
「莫迦《ばか》をいえ」と宗俊は、苦笑いをして首を振り、「いかに俺があくどいにしろ、そうそうお前から取る気はねえ。……詳しく話してやりたいが、実はこれだけしか知らねえのさ。いかに中野碩翁様が、俺《おい》らの親分であろうとも、秘密は秘密、お堅いものだ。実はこれだけ聞き出すにも、たいてい苦労をしたことじゃねえ。……だが、この俺の考えでは、お前もとうから聞いていよう、ひんぴんと起こる海賊沙汰、それと関係があるらしいな」
「へへえ、なるほど、海賊にね。いや有難うございました。そこでついでにもう一つ、いつ江戸をたったので?」
「今朝のことだよ。あけがたにな」
「いつ頃帰って参りましょう」
「仕事の都合さ、俺には解らねえ」
「それはそうでございましょうな」
 次郎吉はじっと考え込んだ。
「オイ和泉屋」と宗俊は、にわかにマジメな顔をしたが、「気をつけろよ気をつけろよ。あいつのことだ、じき帰って来よう。そうしたらやっぱりこれまで通り、お前をつけて廻そうぜ。あの細川の下屋敷以来、お前は睨まれているんだからな」
「ほんとに迷惑というものだ」次郎吉は変に薄笑いをしたが、「人もあろうに私《わっち》のことを、鼠小僧だっていうんですからね」
「そいつあどうともいわれねえ」宗俊も変に薄笑いをし、「鼠小僧だっていいじゃねえか。俺ア鼠小僧が大好きだ。腐るほど持っている金持ちの金を、ふんだくるなあ悪かあねえよ」
「ほんとに迷惑というものだ」パチリと頬を叩いたが、「この片頬の切り傷だって、あの爺《じじい》に付けられたんでさあ」
「あれはたしか五年前だったな」
「ほんとに迷惑というものだ」
「ところがことしの秋口から、鼠小僧は影をかくし、代りに出たのが評判の鼓賊、オイ和泉屋、玻璃窓はな、その鼓賊と鼠小僧を、同じ人間だといってるぜ」
「ふふん、どうだって構うものか。私《わっち》の知ったことじゃねえ」
「おおそうか、それもいいだろう。が宗俊は苦労人だ。よしんばお前がなんであろうと、洗い立てるような野暮はしねえ。だからそいつあ安心しねえ。……長い立ち話をしたものさ。どれ、そろそろ行こうかい。和泉屋、それじゃまた逢おう」
 宗俊はノシノシ行ってしまった。
 後を見送った和泉屋次郎吉、
「ふん、あれでもお直参か」吐き出すように呟いたが、「だがマアそれでもいいことを聞いた。鬼のいぬ間の洗濯だ。あばれて、あばれて、あばれ廻ってやろう」

 その夜、江戸の到る所で、鼓の音を聞くことが出来た。そうして市内十ヵ所に渡って、大きな窃盗が行われた。

    気味の悪い不思議な武士

 品川を出た帆船で、銚子港へ行こうとするには、ざっと次のような順序を経て、航海しなければならなかった。
 千葉、木更津《きさらづ》[#ルビの「きさらづ」は底本では「きさらず」]、富津《ふっつ》、上総《かずさ》。安房《あわ》へはいった保田《ほた》、那古《なご》、洲崎《すさき》。野島ヶ岬をグルリと廻り、最初に着くは江見《えみ》の港。それから前原港を経、上総へはいって勝浦、御宿《おんじゅく》。その御宿からは世に名高い、九十九里の荒海で、かこ[#「かこ」に傍点]泣かせの難場であった。首尾よく越せば犬吠崎。それからようやく銚子となり、みちのりにして百五十里、風のない時には港へ寄って、風待ちをしなければならなかった。
 で、玻璃窓の平八の乗った、淀屋の持ち船八幡丸も、この航路から行くことにした。海上風波の難もなく、那古の港まで来た時であったが、一人の武士が乗船した。
 本来八幡丸は貨物船で、客を乗せる船ではないのであったが、やはり裏には裏があり、特に船頭と親しいような者は、こっそり乗ることを許されていた。
 武士の年齢は四十五、六、総髪の大|髻《たぶさ》、見上げるばかりの長身であったが、肉付きはむしろ貧しい方で、そのかわりピンと引き締まっていた。着ている衣裳は黒羽二重。しかし大分年代もので、紋の白味が黄ばんでいた。横たえている大小も、紺の柄絲《つかいと》は膏《あぶら》じみ、鞘の蝋色は剥落《はくらく》し、中身の良否はともかくも、うち見たところ立派ではない。それにもかかわらずその人品が、高朗としてうち上がり、人をして狎《な》れしめない威厳のあるのは、学か剣か宗教か、一流に秀でた人物らしい。
 船尾《とも》の積み荷の蔭に坐り、ぼんやりあたりを見廻していた、郡上平八の傍《そば》まで来ると、ふとその武士は足を止めた。
「職人職人よい天気だな」声をかけたものである。
「へい、よい天気でございます」平八はちょっと驚きながらも、こう慇懃《いんぎん》に挨拶をした。
「どこへ行くな? え、職人?」ひどくきさくな調子であった。
「へい、銚子まで参ります」
「うん、そうか、銚子までな」こういうと武士は坐り込んだが、それからじっと平八を眺め、「なんに行
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