やろう」「その代り理由《わけ》を話しましたら、鼓は譲って戴けましょうね」「胸に落ちたら譲ってやろう」「へえなるほど、胸に落ちたらね。……どうもこいつア困ったなあ。胸に落ちる話じゃねえんだから。……ええままよ話しっちめえ、それで譲って戴けなかったら、ナーニもう一度盗むまでだ。……世間の黄金《こがね》を手に入れるために、鼓が必要なのでございますよ」「世間の黄金を手に入れるため?」「ハイ、江戸中の黄金《こがね》をね。ナニ江戸だけじゃ事が小せえ。日本中の黄金《かね》を掻き集めたいんで」「鼓が何んの用に立つな?」「名鼓は金気《きんき》を感じます。ポンポンポンポンと打っていると、自然と黄金のあり場所が、わかって来るのでございますよ」
これを聞くと銀之丞は、しばらくじっと打ち案じていたが、
「さては貴様は鼓賊だな」忍び音で叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]した。
「へい、お手の筋でございます」
「ううむ、そうか、鼓賊であったか」
「相済みませんでございます」
「おれに謝《あやま》る必要はない」銀之丞は笑ったが、「どうだ鼓賊、儲かるかな?」
「一向不景気でございます」
「そうでもあるまい。もとでいらずだからな」
「が、その代り命掛けで」
「だから一層面白いではないか」
「これはご挨拶でございますな。相変らずの観世様で」
「ところでお前は知っているかな、あの有名な『玻璃窓』が、お前の後を追っかけているのを」
「へい、今夜も追っかけられました」
「貴様、今に取っ捉かまるぞ」
「いい勝負でございます」
「なに、いい勝負だ、これは面白い。で、どっちが勝つと思うな?」
「とにかく今は私の勝ちで。……あすのことは判りませんなあ。……ところで鼓は頂けますまいかな?」
「さあそれだ」と銀之丞は、皮肉な笑を浮かべたが、「鼓賊であろうがあるまいが、おれには何んのかかわりもない。金を盗もうと盗むまいと、それとておれには風馬牛だ。ところで少納言の鼓だが、たとえ名器であるにしても、一旦賊の手に渡ったからは、いわば不浄を経て来たものだ。伝家の宝とすることは出来ぬ。なあ千三屋、そんなものではないか」
「へい、そんなものでございましょうな」
「と云ってお前へ譲ることは出来ぬ」
「え、どうでもいけませんかな」
「ただしおれには不用の品だ。捨てるによって拾うがよい」
鼓をひょいと地へ置くと、ギーと潜り戸を押し開き、銀之丞は入って行った。
もう夜は明けに近かった。その明け近い江戸の夜の、静かな夜気を驚かせて、またも鼓が鳴り出したのは、それから間もなくのことであった。ポンポンポンポンと江戸市中を、町から町へと伝わって行った。
弟を呼ぶ兄の声
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追分油屋掛け行燈に
浮気ご免と書いちゃない
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清涼とした追分節が、へさき[#「へさき」に傍点]の方から聞こえて来た。
ここは外海の九十九里ヶ浜で、おりから秋の日暮れ時、天末を染めた夕筒《ゆうづつ》が、浪|平《たいら》かな海に映り、物寂しい景色であったが、一隻の帆船が銚子港へ向かって、駸々《しんしん》として駛《はし》っていた。
その帆船のへさき[#「へさき」に傍点]にたたずみ、遙かに海上を眺めながら、追分を唄っている水夫《かこ》があった。
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北山時雨で越後は雨か
この雨やまなきゃあわれない
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続けて唄う追分が、長い尾をひいて消えた時、
「うまい」という声が聞こえて来た。で、ヒョイと振り返って見た。若い侍が立っていた。
「かこ[#「かこ」に傍点]なかなか上手だな」至極《しごく》早速な性質と見えて、その侍は話しかけた。
「どこでそれほど仕込んだな?」
「これはこれはお武家様、お褒めくだされ有難い仕合わせ」かこ[#「かこ」に傍点]は剽軽《ひょうきん》に会釈したが、「自然に覚えましてございますよ」
「自然に覚えた? それは器用だな」こういいいい侍は、帆綱の上へ腰を掛けたが、「実はなわしにはその追分が、特になつかしく思われるのだよ」
「おやさようでございますか」
「というのは他でもない。その文句なりその節なり、それとそっくりの追分を、わしは信州の追分宿で聞いた」
するとかこ[#「かこ」に傍点]は笑い出したが、「甚三の追分でございましょうが」
「これは不思議、どうして知っているな?」
「信州追分での歌い手なら、私の兄の甚三が、一番だからでございます」
「お前は甚三の弟かな?」
「弟の甚内でございます」
「そうであったか、奇遇だな」侍はちょっと懐かしそうに、「いや甚三の弟なら、追分節はうまい筈だ」
「ところがそうではなかったので、唄えるようになりましたのは、このごろのことでございます」
「というのはどういう意味だな?」侍は怪訝《けげん》な顔をした。
「はい、こうなのでございます。ご承知の通り私《わたし》の兄は、あの通り上手でございますのに、どうしたものかこの私は、音《おん》に出すことさえ出来ないという、不器用者でございましたところ、さああれはいつでしたかな、月の良い晩でございましたが、ぼんやり船の船首《へさき》に立ち、故郷《くに》のことや兄のことを、思い出していたのでございますな。すると不意にどこからともなく、兄の声が聞こえて参りました」
「ふうんなるほど、面白いな」
「いえ面白くはございません。気味が悪うございました。『弟ヤーイ』と呼ぶ声が、はっきり聞こえたのでございますもの」
「弟ヤーイ、うんなるほど」
「『お前のいったこと中《あた》ったぞヤーイ』と、こうすぐ追っ駈けて聞こえて参りました」
「それはいったいどういう意味だ?」
「どういう意味だかこの私にも、解らないのでございますよ。とにかく大変悲しそうな声で、それを聞くと私のからだは、総毛立ったほどでございます。と、どうでしょうそのとたんに、私の口から追分が、流れ出たではございませんか」
「不思議だなあ、不思議なことだ」
「不思議なことでございます。いまだに不思議でなりません。これは冗談にではございますが、よく私は兄に向かって、こういったものでございます。『兄貴はきっとおれの声まで、攫《さら》って行ったに違《ちげ》えねえ。だからそんなにうめえのだ』とね。で、私はその時にも、これは兄貴めがおれの声を、返してくれたに相違ねえと、こう思ったものでございますよ」
「それはあるいはそうかも知れない」若い侍はまじまじと、かこの顔を見守ったが、「いつ頃お前は追分を出たな?」
「今年の夏でございます」
「その後一度も帰ったことはないか?」
初めて知った甚三の死
「はい一度もございません」
「……だから何んにも知らないのだ。……悪いことはいわぬ一度帰れ。それも至急帰るがいい」
「はい、有難う存じます。実は私は思いたって、故郷《くに》を出て海へ来たからには、海で一旗上げるまでは、追分の土は踏むまいと、心をきめておりましたが、そんな事があって以来、兄のことが気にかかり、どうも心が落ち着きませんので、この頃一度帰ってみようかと、思っていたところでございますよ」「それは至急に帰るがいい。……恐らくお前の驚くようなことが、持ち上がっているに相違ない」
「へえ、さようでございましょうか?」かこ[#「かこ」に傍点]甚内は疑わしそうに、侍の顔を見守った。
「わしはな、事情を知っているのだ。しかしどうも話しにくい。話したらお前はびっくりして、気を取り乱すに違いない。それが気の毒でいい兼ねる」
「それではもしや兄の身の上に、変事でもあったのではございますまいか?」
甚内はさっと顔色を変えた。
「それそういう顔をする。だからいい悪《にく》いといったのだ。……変事があったら何んとする?」
「変事によりけり[#「よりけり」に傍点]でございますが、もしや人にでも殺されたのなら、そやつ活かして置きません」
「ふうむ、そうか」と若い侍は、それを聞くと眼をひそめたが、「さては予感があったと見える」
「ええ、予感とおっしゃいますと?」
「お前の兄が何者かに、深い怨みでも受けていて、そやつに殺されはしないかと……」
「飛んでもないことでございます。何んのそんなことがございますものか。兄は善人でございます。よい人間でございます。私と異《ちが》って穏《おとな》しくもあり、宿の人達には誰彼となく、可愛がられておりました。……だが、ここにたった一つ……」
「うむ、たった一つ、どうしたな?」
「心配なことがございました」
「恋であろう? お北との恋!」
「おお、それではお武家様には、そんなことまでご存知で?」
「その恋が悪かったのだ」
「ではやっぱり私の兄は……あの女郎のお北めに?」
「無論お北も同腹だが、真の殺し手は他にある」
「それじゃ兄はどいつかに、殺されたのでござんすかえ?」
甚内はワナワナ顫え出した。
「助けてやろうと我々二人、すぐに後を追っかけたが、一足違いで間に合わなかった」
「嘘だ嘘だ! 殺されるものか!」
「凄いような美男の武士……」
「凄いような美男の武士?」思わず甚内は鸚鵡返《おうむがえ》した。
「定紋は剣酸漿《けんかたばみ》だ。……」
「定紋は剣酸漿!」
「お北の新しい恋男だ。……」
「ううむ、そいつが殺したんだな!」
「その名を富士甚内といった」
「それじゃそいつが敵《かたき》だね!」
「おおそうだ、尋ね出して討て!」
「お武家!」
というと甚内は、侍の袂《たもと》を引っ掴んだ。
「う、う、嘘じゃあるめえな※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「嘘をいって何んになる!」
「う、う、嘘じゃあるめえな※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「…………」
「嘘じゃねえ、嘘じゃねえ、ああ嘘じゃなさそうだ!」
ガックリ甚内は首を垂れたが、しばらくは顔を上げようともしない。
この間も船は帆駛《ほばし》って行った。名残《なごり》の夕筒《ゆうづつ》も次第にさめ、海は漸次《だんだん》暗くなった。帆にぶつかる風の音も、夜に入るにしたがって、次第にその音を高めて来た。
敵《かたき》が討ちとうござります
と、甚内は顔を上げた。
「お武家様」といった声には、強い決心がこもっていた。「よく教えてくださいました。厚くお礼を申します。いえもう兄はおっしゃる通り、殺されたに相違ございますまい。可哀そうな兄でございます。死んでも死に切れはしますまい。また私と致しましても、諦めることは出来ません。その侍とお北とを、地を掘っても探し出し、殺してやりとうございます。ハイ、敵《かたき》が討ちたいので。……そこでお尋ね致しますが、そいつら二人は今もなお、追分にいるのでございましょうか?」
「いや」と侍は気の毒そうに、「甚三を殺したその晩に、二人ながら立ち退《の》いた」
「それはそうでございましょうな。人を一人殺したからには、その土地にはおられますまい。じゃそいつらは行方不明《ゆくえふめい》で?」
「さよう、行方《ゆきがた》は不明だな」
「それは残念でございますなあ」見る見る甚内は打ち悄《しお》れた。
しかし侍は元気付けるように、「恐らくは江戸にいようと思う」
「え、江戸におりましょうか?」
「江戸は浮世の掃き溜《だめ》だ。無数の人間が渦巻いている。善人もいれば悪人もいる。心掛けある悪党はそういう所へ隠れるものだ」「へえ、さようでございますかな」「また自然の順序からいっても、まず江戸から探すべきだ」「へえ、さようでございますかな」「で、江戸から探してかかれ」
「ハイ、有難う存じます。それではお言葉に従いまして、江戸を探すことに致します」
侍はにわかに気遣《きづか》わしそうに、
「ところで剣道は出来るのか?」
「え?」と甚内は訊き返した。
「剣術だよ。人を切る業《わざ》だ」
「ああ剣術でございますか。いえ、やったことはございません」
「ははあ、少しも出来ないのか。それはどうも心もとない。……おおそうだいいことがある。お前江戸へ参ったら、千葉先生をお訪ね致せ。神田お玉ヶ池においでなさる、日本一の大先生だ。よく事
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