だされ」とたんに老武士が声を掛けた。
 すると、みすぼらしい侍は、そのまま静かに足をとめたが、「何かご用でござるかな?」
「用と申すではござらぬが、物騒のおりからかかる深夜に、どこへお越しなされるな?」
「これはこれは異なお尋ね、深夜にあるくが不審なら、なぜそこもともおあるきなさる」みすぼらしい侍はしっぺ返したが、これはいかにももっともであった。
「いやナニそのように仰せられては、角が立って変なもの、とがめ立てしたが悪いとなら、拙者幾重にもおわび致す」老武士は言葉を改めた。

    流名取り上げ破門の宣言《せんこく》[#「宣言《せんこく》」はママ]

「ナニ、それほどの事でもない」みすぼらしい侍は笑ったが、「実をいえばお言葉通り、世間物騒のおりからといい、かような深夜の一人歩きは、好ましいことではござらぬが、実は拙者は余儀ない理由で、物を尋ねているのでな」
「ははあさようでござるかな。して何をお尋ねかな?」
「ちと変った尋ねものでござる」
「お差し支えなくばお明かしを」
「いやそれはなりませぬ」
「さようでござるかな、やむを得ませぬ。……実はな、拙者もそこもとと同じく、物を尋ねておるのでござるよ。ちと変った尋ねものをな」
「似たような境遇があればあるものだ」
「さよう似たような境遇でござる」
 二人はそっと笑い合った。
「ご免くだされ」「ご免くだされ」事もなく二人は別れたものである。
 で、老武士はゆるゆると、不忍池《しのばずのいけ》に沿いながら、北の方へあるいて行った。二町余りもあるいたであろうか、彼は杭《くい》のように突っ立った。
「聞こえる聞こえる鼓の音が!」
 果然鼓の音がした。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、微妙極まる音であった。
「うむ、とうとう見つけたぞ! 今度こそは逃がしはせぬ! 小梅で聞いた鼓の音! おのれ鼓賊! こっちのものだ!」
 音を慕って老武士は、松平出雲守の邸の方へ、脱兎のように走って行った。
 これとちょうど同じ時刻に、例のみすぼらしい侍は、黒門町を歩いていたが、何か考えていると見えて、その顔は深く沈んでいた。
 と、行く手の闇の中へ、二つの人影が現われたが、しずしずとこっちへ近寄って来た。登場人物の三人目と、登場人物の四人目であった。近付くままによく見ると、ふたりながら武士であった。
 双方ゆるゆる行き過ぎようとした。とたんに事件が勃発した。
 と云うのはほかでもない。行き過ぎようとした刹那、その三番目の登場人物が、声も掛けず抜き打ちに、みすぼらしい侍へ切り付けたのであった。その太刀風の鋭いこと、闇をつんざいて紫電一条斜めに走ると思われたが、はたしてアッという悲鳴が聞こえた。しかし見れば意外にも、切り込んで行った武士の方が、大地の上に倒れていた。そうしてみすぼらしい侍が、その上を膝で抑えていた。驚いた四番目の登場人物が、すかさず颯《さっ》と切り込んで行ったが、咄嗟《とっさ》に掛かった真の気合い、カーッという恐ろしい声に打たれ、タジタジと二、三歩後へ退った。間髪を入れず息抜き気合い、エイ! という声がまた掛かった。と四番目の人物は、バッタリ大地へ膝をついた。この間わずかに一分であった。後は森然《しん》と静かであった。と、みすぼらしい侍は、膝を起こして立ち上がったが、それからポンポンと塵を払うと、憐れむような含み声で、
「殺人剣活人剣、このけじめさえ解らぬような、言語に絶えた大馬鹿者、天に代って成敗しようか。いやそれさえ刀の穢れ、このまま見遁がしてやるほどに、好きな所へ行きおろう。……但し、北辰一刀流は、今日限り取り上げる。師弟の誼《よし》みももうこれまで、千葉道場はもちろん破門、立ち廻らば用捨《ようしゃ》せぬぞ」
 そのままシトシトと行き過ぎてしまった。実に堂々たる態度であった。二人の武士は一言もなく、そのあとを見送るばかりであった。
 と、一人が吐息《といき》をした。「オイ観世、ひどい目にあったな?」
「大先生とは知らなかった。平手、これからどうするな?」
「うむ」といって思案したが、「いい機会だ、旅へ出よう。そうして一修行することにしよう」
「武者修行か、それもいいな。ではおれもそういうことにしよう。但しおれは剣はやめだ。おれはおれの本職へ帰る。能役者としての本職へな」

    意外、意外、また意外!

 さて一方老武士は、ポンポンと鳴る鼓を追って、ドンドンそっちへ走って行ったが、松平出雲守の邸前まで来ると、音の有所《ありか》が解らなくなった。はてなと思って耳を澄ますと、やっぱり鼓は鳴っていた。どうやら西の方で鳴っているらしい。でそっちへ走って行った。そこに立派な屋敷があった。松平備後守の屋敷であった。しかしそこまで行った時には、もう音は聞こえない。しかしそれより南の方角で、幽《かす》かにポンポンと鳴っていた。
「素早い奴だ」と舌を巻きながら、老武士は走らざるを得なかった。式部少輔榊原家の、裏門あたりまで来た時であったが、はじめて人影を見ることが出来た。尾行《つ》ける者ありと知ったのでもあろう、もう鼓を打とうとはせず、その人影は走って行った。その走り方を一眼見ると、
「しめた!」と老武士は思わずいった。
「横あるきだ横あるきだ!」
 その横歩きの人影は、見る見る煙りのように消えてしまった。
「よし、あの辺は今生院《こんじょういん》だな。東へ抜けると板倉家、西へ突っ切ると賀州殿、これはどっちも行き止まりだ。さて後は南ばかり、あっ、そうだ湯島へ出たな!」
 考える間もとし[#「とし」に傍点]遅《おそ》しで、老武士は近道を突っ走った。

「これ、ばか者、気をつけるがいい、何んだ、うしろからぶつかって来て」
 こう怒鳴りつける声がした。湯島天神の境内であった。怒鳴ったのは侍で、ほかならぬ観世銀之丞であった。各※[#二の字点、1−2−22]《おのおの》好む道へ行こう、お前は武者修行へ出るがよい、おれは本職の能役者へ帰ると、こういって親友の平手造酒と、黒門町で手を分かつと、麹町のやしきへ戻ろうと、彼はここまで来たのであった。その時やにわにうしろから、ドンとぶつかったものがあった。
「これ何んとか挨拶をせい。黙っているとは不都合な奴だ」
 いいいい四辺《あたり》を見廻した。するとどこにも人影がない。
「あっ」と銀之丞は飽気《あっけ》に取られた。
「これは不思議、誰もいない」
 気がついて自分の手もとを見た。そこでまた彼は「あっ」といった。空身であった彼の手が、変な物を持っていた。
「なんだこれは?」とすかして見たが、三度彼は「あっ」といった。今度こそ本当の驚きであった。彼の持っている変な物こそ、ほかでもない鼓であった。それも尋常な鼓ではない。かつて追分で盗まれた、家宝少納言の鼓であった。
「むう」思わず唸ったが、そのままじっと考え込んだ。
 と、また人の足音がした。ハッと思って振り返った眼前《めさき》へ、ツト現われた老武士があった。
「卒爾《そつじ》ながらおたずね致す」
「何んでござるな、ご用かな?」場合が場合なので銀之丞は、身構えをしてきき返した。
「只今ここへ怪しい人間、確かに逃げ込み参った筈、貴殿にはお見掛けなされぬかな?」
「見掛けませぬな。とんと見掛けぬ」
「それは残念、ご免くだされ」
 いい捨て向こうへ駆け抜けようとしたが、幽かな常夜燈の灯に照らし、銀之丞の持っている鼓を見ると、飛燕のように飛び返って来た。
 銀之丞の手首をひっ掴むと、「曲者|捕《と》った……鼓! 鼓!」
「黙れ!」と銀之丞は一喝した。「鼓がどうした? 拙者の鼓だ!」
「何んの鼓賊め! その手には乗らぬ! 神妙に致せ! 逃《の》がしはせぬぞ!」
「鼓賊とは何んだ! おおたわけ! 拙者は観世銀之丞、柳営おとめ[#「おとめ」に傍点]芸の家門だぞ!」
 これを聞くと老武士は、にわかに後へ下がったが、
「ナニ観世銀之丞とな。誠でござるかな、どれお顔を……あっ、いかにも銀之丞殿だ!」
「掛《か》け値《ね》はござらぬ。銀之丞でござる。……ところで貴殿はどなたでござるな?」

    河中へ飛び込んだその早業《はやわざ》

「拙者は郡上平八でござる」
「おお玻璃窓の平八老か」
「それに致してもその鼓は?」
「家宝少納言の鼓でござる」
「では、ご紛失なされたという?」
「偶然手もとへ戻りましてな」
「ははあ」といったが平八は、深い絶望に墜落《おちい》った。「うむ残念、鼓賊めに、また一杯食わされたそうな」
「ご用がなくばこれで失礼」銀之丞は会釈した。
「ご随意にお引き取りくださいますよう」こういったまま平八は、首を垂れて考え込んだ。

 銀之丞と別れた平手造酒は、両国の方へあるいて行った。
「下総の侠客笹川の繁蔵は、おれと一面の識がある。ひとまずあそこへ落ち着くとしようか」こんな事を考え考え、橋なかばまで歩いて来た。
 と、悲鳴が聞こえて来た。「人殺しい!」と叫んでいた。向こう詰めから聞こえるのであった。造酒は大小を束《そく》に掴むと、韋駄天《いだてん》のように走って行った。
 見ると覆面の侍が、切り斃した町人の懐中から、財布を引き出すところであった。
「わるもの!」と叫ぶと、拳《こぶし》を揮い、造酒はやにわにうってかかった。「おお、さては貴様だな! 辻斬りをして金を奪う、武士にあるまじき卑怯者は!」
 すると覆面の侍は、抜き持っていた血刀を、ズイとばかりに突き出したが、
「貴様も命が惜しくないそうな」……そういう声には鬼気があった。その構えにも鬼気があった。そうして造酒にはその侍に、覚えがあるような気持ちがした。剣技も確かに抜群であった。
 油断はならぬと思ったので、造酒はピタリと拳を付けた。北辰一刀流直正伝拳隠れの固めであった。
 それと見て取った覆面の武士は、にわかに刀を手もとへひいたが、それと同時に左の手が、橋の欄干へピタリとかかった。一呼吸する隙もない、その体が宙へうき、それが橋下へ隠れたかと思うと、ドボーンという水音がした。水を潜ってにげたのであった。
「恐ろしい早業《はやわざ》、まるで鳥だ」造酒は思わず舌を巻いたが、「しかしこれであたりが付いた。ううむ、そうか! きゃつであったか」

 玻璃窓の平八と別れると、観世銀之丞は夜道を急ぎ、邸の裏門まで帰って来た。と、門の暗闇から、チョコチョコと走り出た小男があった。
「観世様、お久しぶりで」その小男はいったものである。
「お久しぶりとな? どなたでござるな?」
「へい、私《わっち》でございます」ヌッと顔を突き出した。
「おお、お前は千三屋ではないか」
「正《まさ》に千三屋でございます」
「なるほどこれは久しぶりだな」
「へい、久しぶりでございます」
「して何か用事でもあるのか?」
「ちと、ご相談がございましてな」
「ナニ相談? どんな相談だな?」
「鼓をお譲りくださいまし」千三屋はいったものである。
 すると銀之丞は吹き出してしまった。それから皮肉にこういった。
「貴様、実に悪い奴だ。鼓を盗んだのは貴様だろう?」「いえ、拝借しましたので」「永い拝借があるものだな」「長期拝借という奴で」「黙って持って行けば泥棒だ」「だからお返し致しました」
「ははあ、湯島の境内で、おれにぶつかったのは貴様であったか?」「その時お返し致しました」
 千三屋はケロリとした。

    捨てるによって拾うがよい

「是非欲しいというのなら、譲ってやらないものでもないが、お前のような旅商人に、鼓が何んの必要があるな?」銀之丞は不思議そうに訊いた。
「是非欲しいのでございますよ」千三屋は熱心であった。「命掛けで欲しいので」
「いよいよもっておかしいな。この鼓で何をする気だ?」
「ちょっとそいつは申されませんなあ」当惑をした様子であった。
「いえないものなら聞きたくもない」銀之丞はそっけなく「その代り鼓も譲ることは出来ぬ」潜《くぐ》り戸を開けてはいろうとした。
「おっとおっと観世様、そいつアどうも困りましたなあ」「ではわけを話すがいい」「ようがす。思い切って話しましょう」「おお話すか、では聞いて
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