情をお話し致し、是非お力を乞うようしろ。先生は尋常なお方ではない。堂々たる大丈夫だ。場合によっては先生ご自身、助太刀をしてくださるかもしれない」
「何から何まで有難いことで。そういう訳でございましたら、何を置いても千葉先生とやらを、お訪ね致すでございましょう」甚内は嬉しそうに頭を下げた。
「それがよい、是非訪ねろ。……そこでお前に頼みがある。千葉先生におあいしたら、一つこのように伝言《ことづけ》てくれ。大馬鹿者の観世銀之丞も、あの晩以来改心し、真人間になりました。そうして自分の本職を、いよいよ練磨致すため、犬吠崎へ参りました。岸へ打ち寄せる大海の濤《なみ》、それへ向かって声を練り、二年三年のその後には、あっぱれ日本一の芸術家となり、再度お目にかかります。その時までは剣の方は、一切手にも触れませぬと、こう先生へ申し上げてくれ」
「やあ、それじゃあなた様は、観世様でございましたか?」さも驚いたというように、甚内は声を筒抜かせた。
「さよう、わしは観世だが、お前わしを知っているかな?」
「知っているどころじゃございません。本陣油屋でお調べになった、あの素敵もねえ鼓の手を、どんなにか喜んで死んだ兄は、お聞きしたか知れません」
「そういわれれば思い出す」銀之丞はその顔へ、寂しい笑いを浮かべたが、「おれが鼓を調べさえすれば、甚三も追分を唄ったものだ。おれと競争でもするようにな。……もうその追分も聞く事は出来ぬ」
いつかすっかり夕陽が消え、星が点々と産まれ出た。風は次第に勢いを強め、帆の鳴る音も凄くなった。
風雨を貫く謡《うたい》の声
「オーイ甚内!」と呼ぶ声がした。「しけが来るぞヨー、帆を下ろせヨー」
「オーイ」と甚内はすぐ応じた。それから銀之丞へ会釈したが、「しけが来るようでございます。ちょっとご免を被ります」
いい捨てクルリと身を翻《ひるが》えすと、兄の死を痛み悲しんでいた、もう今までの甚内ではない。熟練をした勇敢な、風浪と戦うかこ[#「かこ」に傍点]であった。
帆綱を握るとグイと引いた。ギーギーという音がして、左右に帆柱が揺《うご》いたかと思うと、張り切った帆が弛んで来た。
「ヨイショヨイショ、ヨイショヨイショ!」
掛け声と共に手繰《たぐ》り下ろした。
星が消えたと見る間もなく、ザーッと雨が落として来た。篠突《しのつ》くような暴雨であった。雨脚《あまあし》が乱れて濛気《もうき》となり、その濛気が船を包み、一寸先も見えなくなった。轟々《ごうごう》という凄じい音は、巻立ち狂う波の音で、キキー、キキーと物悲しい、咽《むせ》ぶような物の音は、船の軋《きし》む音であった。空を仰げば黒雲湧き立ち、電光さえも加わった。凄じい暴風雨となったのであった。
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
その荒涼たる光景の中から、十数人のかこ[#「かこ」に傍点]の声ばかりが、雄々しく勇ましく響いて来た。
乗客は悉く胴の間に隠れ、不安に胸を躍らしていた。ただ一人銀之丞ばかりが、船のへさき[#「へさき」に傍点]に突っ立っていた。
「ああいいな。勇ましいな」彼は呟いたものである。「自然の威力に比べては、何んて人間はちっぽけなんだろう? だがいやいやそうでもないな、かこ[#「かこ」に傍点]はどうだ! あの姿は!」
銀之丞は武者揮いをした。
「自然の威力を突き破ろうと、ぶつかって行くあの力! 恐ろしい運命にヒタと見入り、刃向かって行くあの態度! これが本当の人間だな! ふさぎの虫も糸瓜《へちま》もない! あるものは力ばかりだ! いいな、実にいい、生き甲斐があるな!」
嵐は益※[#二の字点、1−2−22]吹き募り、雨はいよいよ量を増した。所は名に負う九十九里ヶ浜、日本近海での難場であった。四辺《あたり》は暗く浪は黒く、時々白いものの閃めくのは、砕けた浪の穂頭《ほがしら》であった。
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
かこ[#「かこ」に傍点]どもの呼ぶ掛け声は、益※[#二の字点、1−2−22]勇敢に響き渡った。しかし人力には限りがあり、自然の暴力は無限であった。
かこ[#「かこ」に傍点]は次第に弱って来た。船がグルグルと廻り出した。
「もういけねえ! もういけねえ!」
悲鳴の声が聞こえて来た。
真っ黒の大浪がうねりをなし、小山のように寄せたかと思うと、船はキリキリと舞い上がった。
「助けてくれえ!」
と叫ぶのは、胴の間にいる乗客達であった。
と、この時、朗々たる、謡《うたい》の声が聞こえて来た。
神か鬼神かこの中にあって、悠々と謡をうたうとは! 暴風暴雨を貫いて、その声は鮮かに聞こえ渡った。
「誰だ誰だ謡をうたうのは!」
「偉《えれ》えお方だ! 偉えお方だ!」
「偉えお方が乗っておいでになる! 船は助かるぞ助かるぞ!」
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
ふたたびかこ[#「かこ」に傍点]の声は盛り返した。その声々に抽《ぬき》んでて、謡の声はなおつづいた。
船が銚子へ着いたのは、その翌日のことであった。
「主知らずの別荘」の別荘番
「オイオイ若いの。オイ若いの」
※[#歌記号、1−3−28]かくばかり経高く見ゆる世の中に、羨ましくも澄む月の、出汐をいざや汲もうよ……
「オイオイ若いの。オイ若いの」
※[#歌記号、1−3−28]影はずかしき我が姿、忍び車を引く汐の……
「うなっては困る。うなっては困る」
「誰もうなってはいないではないか」
「お前の事だ。うなっては困る」
「おれは何もうなってはいない」
「今までうなっていたじゃないか」
※[#歌記号、1−3−28]おもしろや、馴れても須磨の夕まぐれ、あま[#「あま」に傍点]の呼び声かすかにて……
「あれ、いけねえ、またうなり出した」
※[#歌記号、1−3−28]沖に小さき漁《いさ》り舟の、影|幽《かす》かなる月の顔……
「やりきれねえなあ、うなっていやがら」
※[#歌記号、1−3−28]仮りの姿や友千鳥、野分《のわき》汐風いずれも実《げ》に、かかる所の秋なりけり、あら心すごの夜すがらやな……
「オイオイ若いの。困るじゃねえか」
「なんだ貴様。まだいたのか」
「お前がうなっているからよ」
「解らない奴だ。うなるとは何んだ。これはな謡をうたっているのだ」
「ははあ、そいつが謡ってものか」
「めったに聞けない名人の謡だ。後学のために謹聴しろ」
「あれ、あんなことをいっていやがる。自分で自分を名人だっていやがる」
「アッハッハッハッそれが悪いか」
「なんと自惚《うぬぼ》れの強いわろ[#「わろ」に傍点]だ」
「アッハッハッハッ、自惚れに見えるか。……さて、もう一度聞かせてやるかな」
「オットオットそいつあいけねえ。勘弁してくんな、おれが叱られる」
「おかしな奴だな。誰に叱られる?」
「旦那によ、旦那殿によ」
「なぜ叱られる。何んの理由で?」
「やかましいからよ。うなるのでな」
「ははあ、それでは謡のことか」
「うん、そうとも、他に何がある」
「我がままな奴だな。こういってやれ。ここは銚子獅子ヶ岩、向こうは荒海太平洋だ。あたり近所に人家はない。謡おうとうなろうと勝手だとな。その旦ツクにいってやれ」
「うんにゃ、駄目だ。おれが叱られる」
「よかろう。勝手に叱られるさ」
「おれが困るよ。だから頼む。……第一声が透《とお》り過ぎらあ。洞間声《どうまごえ》[#「洞間声」はママ]っていう奴だからな」
「洞間声[#「洞間声」はママ]だって? こいつは助からぬ。アッハッハッハッ、いや面白い」
「面白くはねえよ。面白いものか。叱られて何んの面白いものか」
「よっぽど解らずやの旦那だな」
「フン、何んとでもいうがいいや」
「いったい誰だ? お前の旦那は?」
「お金持ちだよ。大金持ちだ」
「金があっても趣味がなければ、馬や牛と大差ないな」
厳重を極めた別荘普請
「だがお前の主人というのは、いったいどこに住んでるのか?」
「お前さんそいつを知らねえのか」
「知らないとも、知る訳がない」
「だが、やしきは知ってる筈だ」
「お前の主人のやしきをな?」
「うんそうさ、有名だからな」
「いいや、おれはちっとも知らない」
「そんな筈はねえ、きっと知ってる」
「おかしいな。おれは知らないよ」
「獅子ヶ岩から半町北だ」
「獅子ヶ岩から半町北と?」
「近来《ちかごろ》普請に取りかかったやしきだ」
「や、それじゃ『主《ぬし》知らずの別荘』か?」
「そうれ、ちゃアんと知ってるでねえか」
「その別荘なら知ってるとも」
「それがおれの主人の巣だ」
「ふうん、そうか。やっと解った」
「随分有名な邸《やしき》だろうが?」
「銚子中で評判の邸だ」
「それがおれの主人の邸だ」
「そこでお前にきくことがある。何んと思ってあんな普請をした?」
「あんな普請とはどんな普請だ?」
「まるで砦《とりで》の構えではないか」
「…………」
「厚い石垣、高い土塀、たとえ大砲を打ちかけても、壊れそうもない厳重な門、海水をたたえた深い堀、上げ下げ自由な鉄の釣り橋、え、オイまるで砦じゃないか」
「おれの知ったことじゃねえ」
「で、主人はいつ来たのだ?」
「うん、主人はずっと以前《まえ》からよ……そうさ今から二月ほど前から、こっそりあそこへ来ているんだ」
「ほほう、そうか、それは知らなかった」
「ところが他のご家族達も、二、三日中には越して来るのだ」
「それで家族は多いのか?」
「うん、奥様とお嬢様と、坊様と召使い達だ」
「では『主知らずの別荘』が、いよいよ主を迎えた訳だな」
「そうかもしれねえ。うん、そうだ」
「ところで主人の身分は何んだ?」
「主人の身分か? 主人の身分はな……いやおれは何んにも知らねえ」
「ははあ隠《かく》すつもりだな」
「おれは何んにも知らねえよ」
「で、お嬢様は別嬪《べっぴん》かな?」
「おれは何んにも知らねえよ」
「いよいよ隠すつもりだな」
「おれはちっとばかりしゃべり過ぎたからな」
「ところでお前は何者だな?」
「おれは何んにも知らねえよ」
「ふざけちゃいけない、馬鹿なことをいうな」
「ああおれか、別荘番だよ」
「うん、そうか、別荘番か。『主知らずの別荘』の別荘番だな」
「別荘番の丑松《うしまつ》ってんだ」
「噂は以前から聞いていたよ」
「おれは銚子では名高いんだからな」
「そうだ、お前は名高いよ。『主知らずの別荘』と同じにな」
「ところでお前さん、何者だね?」
「おれか、おれは能役者だ」
「ああ役者か、何んだ詰まらねえ」
「口の悪い奴だ。詰まらねえとは何んだ」
駕籠から覗いた美しい女
「姓名の儀は何んていうね?」
「姓名の儀はとおいでなすったな。姓名は観世銀之丞」
「ほほん、銀之丞か。役者らしい名だ。詰めていうと銀公だな。そうじゃアねえ、銀的だ」
「口の悪い奴だ。いよいよ口が悪い。が、まあ銀公でも銀的でもいい」
「お前さん、この土地へはいつ来たね?」
「二十日ほどまえだ。それがどうしたな」
「あッ、やっと思い出した。そうそうお前さんはお品《しな》の婿だね」
「お品の婿だって。何んのことだ?」
「隠したって駄目だ。評判だからな」
「そうか、何んにしても有難い」
「厭な野郎だな、礼をいっていやがる」
「めでたそうな話だからよ」
「だってお前さん評判だぜ。お品の所へ江戸の役者が、入《い》り婿《むこ》となって来たってな」
「お品の家の離れ座敷を、たしかにおれは借りているよ」
「ソーレ見たか、泥を吐きおった」
「そうしてお品はいい娘だ」
「甘え野郎だ、惚気《のろけ》ていやがる」
「銚子小町だということだな」
「鼻持ちがならねえ、いろきちげえ!」
「だが、銚子の小町娘も、田の草を取ったり網を干したり、野良馬の手綱をひいたりしたでは、こいつどうも色消しだな」
「そいつはどうも仕方がねえ。この辺は半農半漁だからな。よっぽどいい所の娘っ子でも、漁にも出れば作もするよ」
「それはそうだ、御意《ぎょい》の通りだ。そうして実はお品にしてからが、その網干しの姿とか、ないしは草取りの姿の方が
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