まって以来、甚三の心は一日として、平和の時はなかったのであった。……しかし今は過去となった。苦痛はまさに過ぎ去ろうとしていた。富士甚内がお北と別れ、追分宿を立ち去りつつある。すぐに平和が帰って来よう。これまで通り二人だけの、恋の世界が立ち帰って来よう。……
甚三は声を張り上げて、次から次と唄うのであった。馬上では甚内が腕|拱《こまね》き、じっと唄声に耳を澄まし、機会の来るのを待っていた。
「もうよかろう」と心でいって、四辺《あたり》を窃《ひそ》かに見廻した時には、追分宿は山に隠れ、燈《ともしび》一つ見えなかった。おおかた二里は離れたであろう。左は茫々たる芒原《すすきはら》。右手は谷川を一筋隔て、峨々たる山が聳えていた。甚内は拱いた腕を解くと、静かに柄を握りしめた。知らぬ甚三は唄って行った。今はひとのために唄うのではない。自分の声に自分が惚れ、自分のために唄うのであった。
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追分油屋掛け行燈《あんどん》に
浮気ご免と書いちゃない
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甚内はキラリと刀を抜いた。
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浅間山さんなぜやけしゃんす
腰に三宿持ちながら
[#こ
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