見よう」銀之丞は立ち上がった。
「何、行って見よう? どこへ行くのだ?」
千三屋相手に碁を囲んでいた、平手造酒は振り返った。
「追分を聞きにだ、行って見よう」「今夜に限って酷《ひど》く熱心だな」「いつもと唄い振りが異うからだ」「そいつはおれには解らない」「行って見よう。おれは行くぞ」「何に対しても執着の薄い、貴公としては珍らしいな」「だんだん遠くへ行ってしまう。おいどうする、行くか厭か?」「さあおれはどっちでもいい」「おれは行く。行って聞く。後からこっそりついて行って、堪能するまで聞いてやろう」「全く貴公としては珍らしい。何に対しても興ずることのない、退屈し切ったいつもに似ず、今夜は馬鹿に面白がるではないか」「それがさ、今もいった通り、今夜に限って甚三の歌が、ひどく違って聞こえるからだ」「いつもとどこが違うかな?」「鬱《うっ》していたのが延びている。燃えていたのが澄み切っている。蟠《わだか》まっていたのが晴れている。いつもは余りに悲痛だった。今夜の唄い振りは楽しそうだ。心に喜びがあればこそ、ああいう歌声が出て来るのだろう。めったに一生に二度とは来ない、愉快な境地にいるらしい」「ふうん
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