たらよかろうか? 女の心を引きつけている、不思議な追分の歌い手を、永遠にお北から遠避けなければならない。そのほかには手段はない」
 これが甚内の心持ちであった。「よしそうだ、やっつけよう!」
 冷えた盃を取り上げると、つと唇へ持って行った。
 河鹿の鳴く音《ね》は益※[#二の字点、1−2−22]冴え、夏とはいっても二千尺の高地、夜気が冷え冷えと身にしみて来た。
「お北、それではまたあおう」
「おあいしたいものでございます」
「すぐにあえる、待っているがいい」
「早くお帰りくださいまし」

    いつもと異《ちが》う歌の節

 頼んで置いた甚三が、馬をひいて迎えに来た、それに跨がった甚内がいた。北国街道を北へ向け、桝形の茶屋を出かけたのは、それから間もなくのことであった。
 間もなく追分を出外れた。振り返って見ると燈火《ともしび》が、靄《もや》の奥から幽《かす》かに見えた。
「旦那様」と不意に甚三がいった。「いよいよご出立でございますかな」
「うん」と甚内は冷やかに、「追分宿ともおさらばだ」
「永らくご滞在でございましたな」「意外に永く滞在した」「旦那様と私とは、ご縁が深うございますな
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