しまい、聞くだけの事は聞いてしまった。もう別れてもよさそうだ」
「別れてもよろしゅうございますとも」お北はぼんやりとうけこたえた。「ではお立ちなさりませ」「おれも果報な人間だな。お北そうは、思わぬかな」「それはなぜでございます?」「なぜといってそうではないか、女郎屋の亭主から謝絶《ことわ》られたのだ」「男冥利《おとこみょうり》でございますよ」「おれもそう思って諦めている」「それが一番ようございます。諦めが肝腎でございます」「止むを得ない諦めだ」「ようお諦めなさいました」「ふん、冷淡な女だな」「いいえわたしは燃えております」「ではなぜいうことを聞いてくれない」「もうその訳は先刻から、申し上げておるではございませんか」「ふん、お前はそんなにまで、あんな男に焦《こ》がれているのか」
 するとお北は眼を据えたが、
「解らないお方でございますこと!」「いやおれには解っている」「ではなぜそんなことをおっしゃいます」「愚痴だ」と甚内は息づまるようにいった。
 甚内は堅く眼をつむり、天井の方へ顔を向けた。思案に余った様子であった。お北は盃を握りしめていた。上瞼《うわまぶた》が弓形を作り、下瞼が一文字を
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