もし彼が凡人なら、そういう自家の境遇を、悲観せざるを得なかったろう。しかるに彼は悲観もせず、また絶望もしなかった。それは彼が天才の上に、一個文字通りの近代人だからで、真の芸術には門閥はないと、固く信じているからであった。
とはいえ彼とて人間であり、殊には烈々たる情熱においては、人一倍強い芸術家のことで、父母のことや友人のことは、忘れる暇とてはないのであった。わけても親友の平手造酒の、その後の消息に関しては、絶えず心を配っていた。
それに彼は生まれながら、都会人の素質を持っていて、江戸の華やかな色彩に対しては、あこがれの心を禁じ得なかった。
ところが今日はからずも、江戸めいた美しい女の顔を、駕籠の中に見たばかりか、その女から笑い掛けられたのであった。
彼の心が動揺し、それが態度に現われたのは、やむを得ないことであろう。
紙つぶてに書かれた「あ」の一字
「どう遊ばして、銀之丞様」
お品が不足そうに声をかけた。「考え込んでおりますのね」
「や、そんなように見えますかな」
「お菓子を半分食べかけたまま、手に持っておいでではありませんか」
「これはこれは、どうしたことだ」
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