破ることは出来ぬ。ジリ、ジリ、ジリと後退《あとしざ》り、またもやグルリと身を翻えすと、窮鼠かえって猫を噛む。破れかぶれに旅人眼掛け、富士甚内は躍り掛かって行った。
「馬鹿め!」と訛《なまり》ある上州弁、旅人は初めて一喝したが、まず菅笠を背後《うしろ》へ刎ね、道中差《どうちゅうざし》を引き抜いた。構えは真っ向大上段、足を左右へ踏ん張ったものである。「あっ」とまたもや甚内は、声を上げざるを得なかった。日本に流派は数あるが、足を前後に開かずに、左右へ踏ん張るというような、そんな構えのある筈がない。
 今は進みも引きもならぬ。タラタラと額から汗を落とし、甚内は総身を強《こわ》ばらせた。
「よしこうなれば相討ちだ。相手を斃しておれも死ぬ。卑怯ながら腹を突こう」外れっこのない相手の腹。突嗟に思案した甚内が、下段に刀を構えたまま、体当りの心組み、ドンとばかりに飛び込んだとたん、「ガーッ」という恐ろしい真の気合いが、耳の側で鳴り渡った。武士が背後《うしろ》からかけたのであった。甚内の意気はくじかれたが、同時に活路が発見《みつか》った。張り詰めた気の弛みから機智がピカリと閃めいたのであった。彼は「えい!」と一声叫ぶと、パッと右手《めて》へ身を逸《いっ》したが、そこは芒の原であった。甚三の馬が悠々と、主人の兇事も知らぬ顔に、一心に草を食っていた。その鞍壺へ手を掛けると甚内は翩翻《へんぽん》と飛び乗った。ピッタリ馬背《ばはい》へ身を伏せたのは、手裏剣を恐れたためであって、「やっ」というと馬腹を蹴った。馬は颯《さっ》と走り出した。馬首は追分へ向いていた。月皎々たる芒原、団々たる夜の露、芒を開き露をちらし、見る見る人馬は遠ざかって行った。草に隠れ草を出で、木の間に隠れ木の間を出で、棒となり点とちぢみ、やがて山腹へ隠れたが、なおしばらくはカツカツという、蹄の音が聞こえてきた。しかしそれさえ間もなく消えた。
 余りの早業《はやわざ》に三人の者は、手を拱ねいて見ているばかり、とめも遮《さえぎ》りも出来なかった。苦笑を洩らすばかりであった。
「素早い奴だ、あきれた奴だ」
 博徒姿の旅人は、こうつぶやくとニヤリとしたが、道中差しを鞘へ納めると、その手で菅笠の紐を結んだ。それから二人の武士の方へ、ちょっと小腰を屈《かが》めたが、追分の方へ足を向けた。
「失礼ながらお待ちくだされ」一人の武士が声を掛けた。
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