拳隠れの構えをつけ、甚内を驚かせた武士であった。他ならぬ平手造酒であった。
「何かご用でござんすかえ」旅人は振り返って足を止めた。
「天晴《あっぱ》れ見事なお腕前、それに不思議な構え方、お差し支えなくばご流名を、お明かしなされてはくださるまいか」
「へい」といったが旅人は、迷惑そうに肩を縮め、「とんだところをお眼にかけ、いやはやお恥ずかしゅう存じます。何、私《わっち》の剣術には、流名も何もござんせん。さあ強いてつけましょうなら、『待ったなし流』とでも申しましょうか。アッハハハ自己流でござんす」
「待ったなし流? これは面白い。どなたについて学ばれたな?」
「最初は師匠にもつきましたが、それもほんの半年ほどで、後は出鱈目でございますよ」
「失礼ながらご身分は?」「ご覧の通りの無職渡世で」「お差しつかえなくばお名前を。……われら事は江戸表……」
「おっとおっとそいつあいけねえ」
 造酒が姓名を宣《なの》ろうとするのを、急いで旅人は止めたものである。
「なにいけない? なぜいけないな?」
 造酒は気不味《きまず》い顔をした。
 それと見て取った旅人は、菅笠《すげがさ》の縁へ片手を掛け、詫びるように傾《かし》げたが、また繰り返していうのであった。
「へいへいそいつアいけません。そいつあどうもいけませんなあ」
 造酒はムッツリと立っていた。しかし旅人はビクともせず
「お見受け申せばお二人ながら、どうして立派なお武家様、私《わっち》ふぜいにお宣《なの》りくださるのは、勿体至極《もったいしごく》もございません。それにお宣《なの》りくだされても、私《わっち》の方からは失礼ながら、宣り返すことが出来ませんので、重ね重ね勿体ない話、どうぞ今日はこのままでお別れ致しとう存じます。広いようでも世間は狭く、そのうちどこかで巡り合い、おお、お前かあなた様かと、宣り合う時もございましょう。今は私《わっち》も忙《せわ》しい体、追い込まれているのでございましてな。兇状持ちなのでございますよ。それではご免くださいますよう」
 こういい捨てると旅人は、二人の武士の挨拶も待たず、風のように走って行った。

    鼓賊《こぞく》江戸を横行す

 馬子の甚三の殺されたことは、追分にとっては驚きであった。驚きといえばもう一つ、油屋のお北が同じその夜にあたかも紛失でもしたように、姿を隠してしまったことで、これは
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